ちょっと小話コーナーShort Story
ご感想やご意見は、掲示板で待っています。

第470話 千載一遇
第471話 枯れ木も山の賑わい 第472話 シルバ−川柳
第473話 背番号19野村克也 第474話   第475話  
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 第473話 背番号 19 野村克也

令和 2 年 2 月 15


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この野村監督 (以下故野村克也氏を時代背景なしで野村監督とします) のサインは、昭和30年にもらいました。野村 監督が南海ホ−クス入団2年目。私かっちゃんは、小学6年生で当時に南海ホ−クス子供会に入っていました。

ホークスの 2軍選手が子供会の会員を集めて遊んでくれるのですが、1軍の蔭山や木塚、堀井なんかがもし来たらサインしてもらおうと、サイン帳と万年筆は子供会行事に行く時はいつも持参していました。

ある日、名前も顔もよく知らない若手選手の中に、優しく言葉をかけてくれた選手にサインをしてもらいました。サインを見ても誰かが分からず、名前を聞く勇気もなくその日は過ぎました。

暫くして家で新聞に載っていた南海ホークスのメンバー表で、2軍に野村克也という選手がいることを知りました。それは、サインの字で私の名の 克 と同じ字を読むことが出来まして、 也 は良く分かることから 野村克也 と分かりましたが、野村監督も当時は全くの無名の選手でした。

しかし、その2年後には野村監督はパ・リーグのホームラン王となったのです。その後20年ほどして、超有名になった野村監督と顔を合わす機会がありまして、写真のサイン帳を見せましたが、ただ 「そーかぁ」と声をかけてくれただけでした。


野村監督の大阪球場での数々の思い出シ−ンでは、自信の無い記憶ですが、昭和38年シ−ズンの大阪球場での最終試合で、パ・リ−グか日本記録かわかにませんが、52 号ホ−ムランを左中間に放しました。低い弾道でフェンスの最上部に当たり、そのまま観客席へと吸い込まれました。例によって私は

ライト側の 外野席で 見ていましたので、その一撃はいまだに記憶に残っています。その年には野村監督はパ・リーグのホーラン王に輝いています。

それから後は、大阪球場の正面に野村監督のアメリカ製の大きな車があり、出待ちをして一言喋るのを楽しみにしていました。大きな車に乗るのは万が一の時に身を守る為だと聞きました。これはおそらく昭和50年前後の事と思います。当時はライト側外野席に集まる、お馴染みの諸兄グループ活動でした。


★ I D 野球は、尾張スコアラ−とブレイザ− の賜物

今や ID 野球といえば、野村監督の特許か独占的な捉え方がされていますが、決してそうではないと私は思っています。我が国のプロ野球における ID野球の発端は、野村監督が南海ホ−クスで頭角を表したころには、既に尾張久次氏が務めていた毎日新聞社を退社して、鶴岡一人監督に招聘されてスコア

ラ−として 南海に採用されて、綿密な記録整備に務めました。やがて他球団の分析をも鶴岡監督に、尾張メモとして報告するようになった。ここで鶴岡監督の下で、キャッチャ−として守りのデ−タ−、そして打撃のデ−タ−として野村監督はいかんなく発揮して、戦後初めての三冠王まで登りつめるのである。

次に、昭和42年に南海ホ−クスにメジャ-リ−ガ−のドン・ブレイザ−が入団した。ブレイザ−といえば入団直後はサ−ドの守備位置に着いていたが、とにかく凄いプレ−ヤ−が来たと思った。それは大阪球場ではホ−クスは一塁側ベンチに座っているが、守備に着く時にベンチから三塁キャンバスまで、見たこ

とのないダッシュで突っ走る超真面目なプレ−ヤ−であった。そんな具合であるから何をやるにも一生懸命だ。ブレイザ−には野球の守備に於ける連携プレ−も徹底的に叩き込まれたと、当時ホ−クスの名遊撃手小池兼司が語っていた。 いわゆる、ブレイザ−のシンキングベ−スボ−ルである。氏の名言に「

両耳の間を使え」がある、つまり頭を使えということである。 野村監督は、ブレイザ−から頭を使う野球を貪欲に吸収するようになった。

I D 野球は、鶴岡監督と尾張スコアラ−それにブレイザーがあってからこそで、野村監督だけが偉いのではない。


★ 南海ホ−クスと袂を分ける

野村監督が育ったのは、南海ホ−クスでである。なるほど監督職としては、後世ヤクルト、阪神、楽天であるとしても、何故に南海ホ−クスでの経歴をここまで反故にされているのかです。

南海ホ−クスの絶対的なドンである、鶴岡一人監督との間に何があったのかである。報道でしか知ることができませんが、 野球で揉めたことは聞かない。やはり2年前に他界した夫人のことであろう。これまた報道の中では鶴岡監督や比叡山の高僧に諫められたのに聞かなかったとされている。

それに加えて野村監督が南海ホ−クスでの晩年には、チ−ムの中心的な数人を集めて憩い、何をか知れないが夫人が口出しして球団をあらぬ方向へと向かわせたとされている。これで野村監督は南海ホ−クスから絶縁状態とされてしまうのである。

大阪球場球場の跡地に建てられた、ナンバパ−クスに、南海ホ−クスのコ−ナ−が設けられたが、その中には野村監督の名は一字も見ることができない。


★ 今は南海ホ−クスはありません。しかし、京セラド−ムでのソフトバンクホ−クスの試合では、三塁側スタンドで、南海ホ−クスの応援歌、応援旗、レプリカユニホ−ムの姿が多く見られます。

私は、ホ−クスファンです。ダイエ−から更にソフトバンクに代わっても、ホ−クスがある限り ホ−クスファンです。背番号 19 野村克也は、ホ−クス生まれの野球人でありました。



 第472話 シルバ−川柳

令和 2 年 2 月 1


つい先日のことである。近所の眼科医院へ白内障の予防薬をもらいに行きました。その待ち合いで、活字の大きいそうな本を1冊手にしました。

その本の名前は シルバ−川柳 と書かれていました。川柳の定義なぞ全く知らないのですが、これがまた後期高齢者の私をグイグイ引き付ける名作が満載です。

その中で思わず ぷっ と噴き出したのが 「 シタ出して  女医に言われて  ギョッとする 」 である。

なるほど私が仕事が現役の時には、仕事場の周りにも女性は居たし、夜の街に繰り出して遊んだりしていて、それなりに女性と触れ合う機会もありましたが、今はと申しますと普段には女性とは縁遠い日々を送っております。

加えて現在は女医さんも増えているとは聞きますが、私らの年代者には女医さんと対峙することはありませんでした。最近ではテレビのバラエティー番組にも美人女医の登場をよく見かけます。

まぁそのような状況のもとで、何々さんどうぞと呼ばれて診察室に入れば、そこには若い女医さんが居られたら頭の中は受診に来たこともすっかり飛んでしまい、無防備となつています。そこで 「シタ出して 」 言われたら良からぬ方向に思考回路が舵を切るのも有り得ると思うのも無理からぬことと思えば、川柳の作者を褒め上げたいと感心した。

今一つ、「 日帰りで 行ってみたいな 天国に 」 これまた絶賛に値すると思いました。少し前に NHK の放送番組で、確かちいさなお葬式とかいうのがありました。また、近頃は葬儀場の見学に誘うパンフレットも見かけます。確かに天国を短時間でもよいので、どんな具合なのかを見てきたいと思うし、その前段として葬儀で送られる自分を予め体験できたとしたら、それこそ後の余命もかなり有意義に時間を送れるかと思います。

地獄八景亡者戯 故桂米朝の名演を枕もとの CD で聞きながら、とりあえず今夜は寝ようとするか。


 第471話 枯れ木も山の賑わい

令和 2 年 1 月 15


枯れ木も山の賑わい

私は、後期高齢者となりまして1年が過ぎました。 まさしく、どのような場に出ていっても、抵抗なく自らを 「枯れ木も山の賑わい」 ですと自己紹介が出来るようになりました。

ここで自分の事を 「枯れ木も山の賑わい」と言葉にすることは何の問題もありませんが、言葉の使いようととすれば、老人が若者の仲間に加わる時などに、枯れ木も山の賑わいですので私も参加させていただきます、と謙遜して使う言葉でありまして、例えば司会者などが他人を紹介する際に、その人を指して、「枯れ木も山の賑わいと言いますから高齢を気にせずに是非参加してください 」 などと言うのは、本来は失礼にあたりますので注意が必要であり、特に目上の人には使ってはいけないことになっています。

またこの語に関して、国の国語調査では、半分の人がこの言葉の意味を 「人が集まれば賑やかになる」と考えているようで、本来の意味である 「つまらないものでもないよりまし」 を上回っている結果がでています。

もともとの語源とすれば、何もない殺風景な山よりも、枯れ木でもあればいくらかは山に風情を添えるものであることから、つまらないものでも、無いよりはあるほうがましであるということらしい。

さて、自分が後期高齢者となり集まりの他の人から視線を受けたおりには、 「つまらないものでもないよりまし」 と見られるよりも 「人が集まれば賑やかになる」 の方が嬉しく思うのは、私の思い上がりでしょうか。

大切なことは、自分自身が 「枯れ木も山の賑わい」 をよく理解して常に、若葉や青葉を決して押しのけて前に出ない様にしなければなりません。されど人生第四コ−ナ−を回ってからが、一番難しい。


 第470話 千載一遇

令和 2 年 1 月 1


---------新年 あけまして おめでとうございます-----------
-----本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします------


千載一遇 (せんざいいちぐう)

年の初めにあたりまして、少しはおめでたい、楽しい夢を手に入れるお話をしたいと思います。

千載一遇は、せんざいいちぐうと読みまして、一生の内でも 滅多に訪れそうもない良い、二度と来ないかも知れないほど恵まれた機会に出会うことを言います。載は年と同じで、一遇は一度だけ出会う思いがけない出合いのことです。つまり千年に一度偶然訪れるくらいのよい機会という意味となります。

この語のもとは、思いもしない素晴らしい人、またはたいそう偉い人などとの出会いを、千載一遇とされたようですが、現在は拡大解釈をされ、あらゆる機会でのチャンス到来で使われるようになりました。素敵な異性との出会いなどに使うケースも多いようです。

このように、千年のうちにたった一度しかない、またとない好機、チヤンスを見逃さないようにしなければなりません。

そこで思い浮かべてほしい歌があります。北原白秋の「待ちぼうけ」です。 ある日農夫が畑で一生懸命畑仕事をしていると、勢いよく走ってきた兎が畑の中の切り株にぶつかり、その兎を運よく得ることができました。いわゆる成功体験が転がり込んできたのです。それからは農夫はせっせと汗を流して働く事をやめて来る日も来る日も畑の外で兎が株にぶつかるのを待つようになりました。やがて畑は荒れ放題となり、村人からは相手にされなくなり、ついに哀れな人生を送ることになったのです。

世の中には、偶然にうまくいくことがあります。でも、その偶然が続くことは滅多に ありません。

しかしながら、千載一遇は、人の寿命が幾ら延びたとしても到底千年も生る訳でもありませんが、何時か誰かに巡ってくる有るかどうかの好機を見逃してはなりません。その為には滅多にない機会を捉える気構えだけは常に備えておく必要があります。この気構えは決して、待ちぼうけの農夫であってはなりません。石の上にも三年とか、雨垂れ石を穿つの精神的な努力の上に一隅は宿るものです。

ぼーと生きてて、千載一遇の絶好機を見逃さない様に、今年は六感を研ぎ澄ませて、無駄のない日々を送りたいと思っています。






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