「金の草鞋で捜す」・・・かねのワラジ と読む。 よく きん と読まれていますが、本当はそうでもないらしい。
もともと草鞋(わらじ)は、藁(わら)を編んで作られた草履(ぞうり)であるから、履いて歩けばすぐに擦り切れてしまいます。そのような時代に金属の草鞋があれば、磨り減ることなく、ぐんと行動距離も延びて、広範囲に渡って、捜すことができるであろうと、辛抱強く、どこまでも根気良く歩き回って捜すことを、「金の草鞋で捜す」と言われるようになった。
このように、より丈夫な草鞋を探し求めていたことに語源があるものなので、決して「金(きん)」ではないのである。しかし、
昨今では、純金製の草鞋を履いてでも、探し当てたいと意味合いに変化しているかも知れませんが。
ついでではありますが、草鞋とは、旅と同じ意味合いに使われていました。草鞋を履くとは、住み慣れた土地を離れて長旅に出ることを言い、ヤクザなどが諸国をまわって、ある土地に身を落ち着けることを、草鞋を脱ぐ、と言いました。
また、
「捜す」は、人を捜すという具合でありまして、探すは、物の場合や、仕事を探す時に使われています。つまり、「金の草鞋で捜す」のは、嫁を、又は婿を捜す時の言い表し方として一番ピッタリくるようですね。
明確な区別はよく分かりませんが、捜すの場合は、人を捜す。一方、探すは、事物を探すとされているように思っています。
さて、今日まで自分が生きてきた中で、人を捜してきたであろうかと、思い返してみれば、残念ながら思い当たる節は無い。このことについて、今にして考えてみれば子供の頃から父親に、友達を捜して選べと口癖のように言われたことを思い出します。常に優れた視野の広い友を求めていれば、おのずから己もまた視野が広がるであろう。が、しかし逆に、視野の狭い友と交われば、それだけの人となります。
このように自分の今までの生きてきた道をふり返えれば、常に物に対する欲というか、物を探すことに徹してきたように思う。端的な例として、趣味の道具探しばかりをしてきたように思える。しかし、残念ながら手に染めてきた一つ一つについても、いずれも趣味の世界の域を出ることがなかった。周りの人から、何でも出来る器用人として呼ばれるものの、これとして一芸に秀でるものは無かったのであります。
多趣味にあらずして、的を絞ってその道を歩き通して来たならば、それなりに自己満足もあって、人に認められもするであろうが、そのようなものは全く無い。
人の一生、「金の草鞋で捜す」のは、自分自身をより高く引き上げてくれる、友であり、師匠なのであります。