ちょっと小話コーナー Short Story
ご意見などは、掲示板で待っています。

第240話

虎の子渡し 第241話 金の草鞋 第242話 二月は
第243話 一時違えば 第244話 人と屏風は 第245話  
第246話   第247話   第248話  
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 第244話 人と屏風は

平成22年3月1


人と屏風は直ぐには立たず

屏風は曲げなければ立たないが、それと同じで、人もひたすら真っ直ぐに正しい道を突き進んでいたのでは、世に立って生きていくことができないから、相手がある場合には、相手方とどこかで折り合いをつける努力が必要である。
また、自分自身の性格の中で、己の信念を通すがばかりに妥協点を見出すことが出来ないことがあっても、それを貫いては、人の世では、生きては行けないということである。

とかく人の世とは、生きて行き難いものである。その世の中で、ひたすら清く正しく実直に生きることは、言うまでもなく、人として、当然であり、普遍の倫理です。しかし、必ずそれを全面的に尊守して、生きていけるか、また人の世としてなり立つものがとすれば、そうではないのですね。

およそ、人の世に、欲という字がなければ、間違いなく素晴しい日々を送ることができるであろうと、誰しも思っていることです。しかし、人間という生き物の欲望が、他の動物に劣っていたとするならば、恐竜のような力のある大動物が、この地球を支配していることと思います。

人の世の中で、いわゆる良い人とは、どのような人のことを指すのであるかを少し考えてみれば、積極的要件としては、惜しみなしに人に施しの出来る人。施しにも千差万別がありますが、有形の物を、施す。また、時間とか、精神的な無形の施しをする。一方、消極的要件としては、人に対して、決して物的にも、精神的にも迷惑を掛けることの無い人。ということになります。

では、良い人の以外は、皆んな悪い人かと言えば、そうとも決め付けることも、また難しい。つまり、良い人とか、悪い人とは、何を持って分別するのかと言えば、古今東西、数行で書き表せるような薄っぺらいものではないのです。
しかし、万人心の底では、良い人でありたいと願っています。では、すべての人々が皆そうであれば、理想な、世を築けるかと思えば、これまた決してそうでもない。

ちょっと、例えが悪いけれども、いつも大渋滞する交差点があるとする。そこは、信号を無視する者を取り締まる官が見張っているのです。そんな交差点でも、不思議とスムースに通過できた。何故だろうと思えば見張り官が居なかった。先を急ぐ運転手が、ほんの少しづつ、信号機に失敬しながらすり抜けていく。他に適当な例えが思い浮かばないので、つい本音を述べてみた。

ほんの少しの悪が、世を明るく円滑にすることも、あるのです。もちろんこの悪が増幅して、親友を失ったり、夫婦別れ、家族崩壊と、ついには当局の厄介になるなんては、言語道断ではあるのですが。 決して悪事を勧めるものではありません。はちきるばかりの善人にも、ほんの少しでも遊び心が必要であるということなのです。

人には優しく、自分には厳しくとは、きれいごとであって、自分には甘く、人には厳しいというのが、現実の世の中です。 正直者が馬鹿をみる。正直貧乏横着栄耀、という語もある。

今回のお題は、とりたてて書かなくても、老若男女、皆さん心の奥で、百も合点承知の助なのですね。


 第243話 一時違えば

平成22年2月15


一時違えば三里の後れ」・・・ひとときちがえば、さんりのおくれ と読む。

ちょっとの間ぐずぐずしていれば、たちまち同行の者から三里ぐらいはおくれるということで、何事をするのにも、初動が肝心と説いたものです。

一時とは、2時間のことですね。そして、「
後れ」は、物事の後先を表現していて、例えば「同輩に後れを取る」のように用いられています。
また、昔の旅を題材として、同じ意味のもつものとして、「小便一町飯一里」があります。昔の旅のイメージとしては、時間がふんだんにあって、よほどの理由がない限りには、ゆったりとしていたかの様に思われますが、今回のように、厳しく戒めて先に急いで、決して時間を無駄にしなかったのですね。

そしてまた、
立ち上がりの大切さは、今回のお題のように時とか、距離などの物理的な数値で表すこともできますが、精神的なマイナス要因として捉えることもできます。一時、つまり出足で、つまずくということは、その時点に於いて、あせりとか、少なくとも心理的に混乱が生じることになり、ややもすると正常な行動が取れなくなります。それがしいては目的を達成できなくなることになりかねません。

何事も、一時違うというスタートの大切さを考えたならば、当然と前もっての準備行為の大切さにつながります。よく、成功者とは準備上手であるとも言われているところです。
このように普通は誰でも、最初の第一歩の大切さは頭では理解をしているのですが、さて、現実にはなかなか実行は伴わないものでありまして、いわゆる泥縄となるのが普通です。

第235話 「一もた 10分」を書きましたが、 一もた、つまり一つもたつくと、10分は費やすというか、損をするとの事で、先述の例では、一寸した出遅れが実質10分以上の時間ロスに繋がりかねないというお話しでした。このお題、実は昔から有ったわけではなく、職場の友が、ある時に、ふと漏らした言葉を書き留めていたものです。
それが、最近ある本に書かれていたのが、今回のお題でありまして、同じ意味の、れっきとした
ことわざがあるのではないですか。何とも妙な心境に嵌っています。

若いフットワークであれば、三里の後れも挽回は可能ですが、何にせよ還暦も過ぎて久しい歳となれば、早い目にスタートをしても、すぐに丁度いい加減となる今、何事にも「一時の遅れ」をすることのないように、したいものである。


 第242話 二月は

平成22年2月1


「二月は逃げて走る」 と、昔から言われています。

一月のすぐあとにくる二月は正月が楽しくにぎやかだっただけに、まるで逃げて走るかのように、あっという間に過ぎてしまうように感じられると言うことと、
「二月」と「逃げる」の「に」の字にかけて面白く言ったものでもあると、ものの本では解説されています。

二月は、閏年でない年には、28日間であるから、3日も早く次の月へと変わりますので、平月に比べての3日間の短いのは心身ともに短く
感じられるものと思います。

実際、平月よりも3日間が少ないことに加えて、正月は何かにつけても後々に記憶に残る出来事が多くあります。そして、二月の次にくる三月も、国民的行事としての卒業式や、社会人にとっても人事異動など、とにかく自他ともに話題となったり、記憶に残る出来事の多い月でもあります。それに比べれば二月は、 一年中でも最も寒く、どうしても家に閉じこもり勝ちであり、行動力に欠けるから記憶に残る出来事となる機会の少ないということが、後になって二月ってあったかなという風に感じるからではないでしょうか。

反論として多忙な一日は、あれこれと追われてすぐに経ってしまいます。それに反して、することが無い、退屈な一日は、やっと昼飯かと言う具合になかなか日暮れとなりません。こうして考えてみれば、「二月は 牛歩のごとし」とする論もあるのではと考えられますね。

まあ、日本列島が一年で一番冷え込む時期であり、誰しもじっと耐え忍ぶ時期として、早く暗い寂しいトンネルを抜けきりたいから、じっと我慢をしていれば、二月はすぐに経つからと自分に言い聞かせているのかもしれませんね。


 第241話 金の草鞋

平成22年1月15


金の草鞋で捜す」・・・かねのワラジ と読む。 よく きん と読まれていますが、本当はそうでもないらしい。

もともと草鞋(わらじ)は、藁(わら)を編んで作られた草履(ぞうり)であるから、履いて歩けばすぐに擦り切れてしまいます。そのような時代に金属の草鞋があれば、磨り減ることなく、ぐんと行動距離も延びて、広範囲に渡って、捜すことができるであろうと、
辛抱強く、どこまでも根気良く歩き回って捜すことを、「金の草鞋で捜す」と言われるようになった。

このように、より丈夫な草鞋を探し求めていたことに語源があるものなので、決して「金(きん)」ではないのである。しかし、 昨今では、純金製の草鞋を履いてでも、探し当てたいと意味合いに変化しているかも知れませんが。

ついでではありますが、草鞋とは、旅と同じ意味合いに使われていました。
草鞋を履くとは、住み慣れた土地を離れて長旅に出ることを言い、ヤクザなどが諸国をまわって、ある土地に身を落ち着けることを、草鞋を脱ぐ、と言いました。

また、 「捜す」は、人を捜すという具合でありまして、探すは、物の場合や、仕事を探す時に使われています。つまり、「金の草鞋で捜す」のは、嫁を、又は婿を捜す時の言い表し方として一番ピッタリくるようですね。 明確な区別はよく分かりませんが、捜すの場合は、人を捜す。一方、探すは、事物を探すとされているように思っています。

さて、今日まで自分が生きてきた中で、人を捜してきたであろうかと、思い返してみれば、残念ながら思い当たる節は無い。このことについて、今にして考えてみれば子供の頃から父親に、友達を捜して選べと口癖のように言われたことを思い出します。常に優れた視野の広い友を求めていれば、おのずから己もまた視野が広がるであろう。が、しかし逆に、視野の狭い友と交われば、それだけの人となります。

このように自分の今までの生きてきた道をふり返えれば、常に物に対する欲というか、物を探すことに徹してきたように思う。端的な例として、趣味の道具探しばかりをしてきたように思える。しかし、残念ながら手に染めてきた一つ一つについても、いずれも趣味の世界の域を出ることがなかった。周りの人から、何でも出来る器用人として呼ばれるものの、これとして一芸に秀でるものは無かったのであります。
多趣味にあらずして、的を絞ってその道を歩き通して来たならば、それなりに自己満足もあって、人に認められもするであろうが、そのようなものは全く無い。

人の一生、「金の草鞋で捜す」のは、自分自身をより高く引き上げてくれる、友であり、師匠なのであります。


 第240話 虎の子渡し

平成22年1月1


---------あけまして おめでとうございます-----------
---本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします---

寅年にちなみまして、数多くある虎に関する故事ことわざから、「虎の子渡し」を、お題を頂戴いたします。

もともとは、古い中国の説話でありまして、生計のやりくりをすることの例えとして使われてきました。皆さんもこの、 虎の子三兄弟の川渡しを、なぞなぞ遊びの問題として使った覚えがあるのではないでしょうか。

ご存知のこととは思いますが、このお話しは、虎の子三兄弟の内、一子は凶暴であり、親が目を離すと兄弟でも襲いかかるので、親虎は、どうして三子を無事に川を渡らすかというものです。その手順といたしましては、まず親虎は凶暴の子を渡し、次に別の子を渡します。そこで凶暴の子を、もう一度連れ戻して、次に残りの子を渡して、最後に凶暴な子を渡したという説話から、生計のやりくりをすることの例えとして使われてきました。

このように、すでに解決したお話しを聞けば、大した事は無いと考えがちでありますが、どの様な場合でも、、これから向かう問題は難しく、終わってみれば、それほどでもなかったという経験はありませんか。虎の子渡しも、親虎は川岸に立ってその時は、さぁどうしたものかと思案したことだと思います。

少し意味合いは違いますが、知らぬゴルフコースに出て、ティーグラウンドに立ち、さぁ打ち出そうと先を見たら、左右が狭く感じて、難しそうだなと思うのが普通ですね。しかし、2打目か、3打目ぐらいの時にティーグラウンドを 振り返ってみると、コースを見る地点によって、こんなにも難易度が変化するもんだなっと思ったことはありませんか。

類似する言葉として、創意工夫というのがあります。知恵を出して物事を考え出したり、新しい思い付きを駆使して、難問を打開していく場合に使われる語ですね。

昨今は、ややもすれば、事なかれ主義に嵌りこむ年代となり、何も考えることなく過ごす事が多くなってまいりました。
そこで、年の始めにあたりまして、今年は何事にも、一呼吸立ち止まってより広く、目を見開いて考えてみる、という習慣を身に付ける様にしてみたいと思っています。



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