ちょっと小話コーナーShort Story
ご感想やご意見は、掲示板で待っています。

第470話 千載一遇
第471話 枯れ木も山の賑わい 第472話 シルバ−川柳
第473話 背番号19野村克也 第474話 分相応に風が吹く 第475話 君子は和して
第476話 そもそもから 第477話 開いた口へ牡丹餅 第478話 張り子の虎
第479話 よすぎて鳥が啼く 第480話 目に青葉 山時鳥 初鰹 第481話 蕎麦の花も一盛り
第482話 朝顔の花一時 第483話   第484話  
第485話   第486話   第487話  
           
           
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 第482話 朝顔の花一時

令和 2 年 7 月 1


朝顔の花一時

子供の頃には、夏休みの理科の宿題として、誰でも一度や二度は、朝顔を栽培した思い出があることと思います。

私は百姓の子であったので、垣根の雑木に絡ます様に地下植えをしていました。朝顔の花の種類まで凝って栽培した覚えはありませんが、今でも思い出すのは朝早く起きて咲いた朝顔に、おはようと挨拶でもするような気持ちで、絵日記に記録をしていた事を覚えています。

当然、当時には、今回のお題のような思いで朝顔に接していた訳ではありませんでした。朝顔の花を見て、ラジオ体操に行った夏の思い出が今でも蘇ります。

さて、 朝顔の花といえば朝咲いてお日様が高く上がる昼前にはしぼんでしまいます。それで朝顔は、物事の盛りの時期は極めて短く衰えやすい事や、儚い事の例えとされています。

これには朝顔という訳ではありませんが、林芙美子が好んで書いた短詩で「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」は、女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しい時が多かった自分の半生を詠んだものとされています。

また、俳句ではどういうわけか朝顔は夏ではなく秋の季語とされています。まあ大相撲では、5月になれば夏場所が開催されますように、昔の人の感性とか、暦では現在の人々よりもいい夢を見る時期のストライクゾ−ンが広かったと思えますね。

七月となり、夏の一日を早起きして、まだ涼しい朝に朝顔を眺めながら、しばしの清々しい一時を楽しむのもいいですね。


 第481話 蕎麦の花も一盛り

令和 2 年 6 月 15


蕎麦の花も一盛り

近年の政府統計表によれば、蕎麦の収穫量を都道府県別に見れば、1位が北海道、2位が茨城県で3位が長野県と割に地域が点在していますが、一方少ないのが、40位奈良県で46位が大阪府、そして最下位の47位が和歌山県ということになっている。道理で私は蕎麦も、蕎麦の花も大阪では見る機会も少なく、今回のお題も知らないままに今まで過ごしてきたのかと思います。

此方では6月には、田植えが行われまして、8月頃になりますと「稗 (此方では(へ)と発音する)が稲を押しのけて蔓延り、暑い最中に鎌を持って、へ 刈をしたものであります。

当時としては、 稗 粟 蕎麦を稲の成長を妨げる雑草の類と考えていました。それでも現実というか記憶には、稗 を覚えていますが、水田では、粟や蕎麦はあまり目にすることは無かったようです。

したがいまして、蕎麦の花は図鑑や、今回のように取り上げて見て知ることができたという次第です。

さて、蕎麦の花の見頃は、年に二度6月下旬から7月初旬と、8月下旬から9月上旬頃とのことである。 蕎麦の花は一つ一つを見るとさして美しいとは言えませんが、畑一面に花盛りとなった折にはそれ相応に美しい風景となるようであります。

このように、開花の時期を迎えて一斉に咲き誇った様を指して、娘さんも少々容ぼうが悪くても年頃になればそれ相当の魅力が出るという諺になりました。

ちなみに、ソバという麺にして現れたのは、江戸時代になってからであり、わりと新しいものですね。しかし、先述のようにその存在としては、 稗 粟 蕎麦として古代から我が国にもあったらしいです。

また、蕎麦は 肥料分が少ない痩せた地や、寒冷な気候の土地、さらには降水量が少ない乾燥した土地でも栽培が可能です。その上成長が早く、蕎麦の実は種まきから2〜3ヶ月程度で収穫できることから、大変重用されました。

今回の新型コロナウイルスでの問題視された将来に、自給という観点から、我が国の米を補給する食料として、生産調整で荒れ地と化した問題解決のエ−スとして「蕎麦」が登場するかも知れませんね。


 第480話 目に青葉 山時鳥 初鰹

令和 2 年 6 月 1


目に青葉 山時鳥 初鰹

何をさておいても、この俳句は口調が最高かと思います。また俳句としてよりも諺としても多く取り上げられています。

初夏の代表的な風物を連ねた、青葉 山時鳥 初鰹 はどれも夏の季語で、視覚・聴覚・味覚で調子よく表現されていて、初夏の爽やかさが感じられます。

この時期、まず目には鮮やかな青葉が、家の小さな庭にも、街の街路樹にも、遠くの山々にも新緑の木々が目に映ります。少し前に謳歌した桜の花とは少し違う、人を始めとする全ての生き物を招き入れ包み込んでくれる優しさと抱擁を感じます。

その様な優しい大自然の山里では、何処からともなくホトトギスが初夏の訪れを歌ってくれます。

そして、初鰹は江戸時代、初夏の頃に穫れる走りの鰹は、初物と珍重されていたそうで日本の食文化は、季節を感じながら、季節の味を大切にしているので、いち早く季節のものを味わうことを大きな喜びであった。今でも鰹に限らず何でも初物を食べると縁起がよく、七十五日は長生きすると言います。

正月の縁起の良い夢として、「一富士二鷹三茄子」がありますが、口調が良く親しみやすい諺は、どことなく万民を幸せに誘う、合言葉ですね。


 第479話 よすぎて鳥が啼く

令和 2 年 5 月 15


よすぎて鳥が啼く

この諺を漢字で書けば、「良過ぎて鳥が啼く」と「夜過ぎて鳥が啼く」をかけたものであります。字の通りで、 あまりよすぎると後で悪いことがおこると戒めたものと思われます。

普通には鳥という生き物は、夕は早寝で朝は早起きとされています。その鳥が夜を過ぎて鳴くと、不吉なことが起きる予告であると言われて忌み嫌われてきました。カラスには悪いですが、現在でもやはりカラスが数十羽集まって騒がしく鳴きますと、何か不吉な事が起こる前兆と胸騒ぎが致します。

また、良すぎる事としましては、自分にしてみれば、人生70歳も過ぎて後期高齢者のこの年までしても、なかなか思い当たる事が有りません。強いて申せば22歳の7月に現在も乗っています、HONDA SM600 を新車で購入した日に、店の人々に見送られて家路に向かってハンドルを手にしながらラジオから流れてくる放送番組のテ−マミュ−ジックである、パ−フディアと、エキゾストから発せられるエンジン音を耳にしながら至高の一時を、55年も経った今でも脳裏には鮮明にメモリ−しています。

しかし、この良過ぎた対価としての、鳥が啼くは、幸いにして50年余りの現在まで、カナリヤや雀のような小鳥には数多く啼かれながらやってきましたが、幸いにして大きな鳥には啼かれることなく、ここまで人生を歩ませてもらったのには、一つだけ思い当たる節があります。

それは、22歳で SM600 を得る前の更に10年以上も前から、鷹 つまり ホ−クスを守り神のごとく崇拝してきた賜物であったのではなかろうかと、今胸の中で信じています。強い鷹に守られながら、後の人生もつつがなくやって参りたいと思います。

 


 第478話 張り子の虎

令和 2 年 5 月 1


ある時、一人のおっさんが突然に 「あいつは、張り子の虎や 」と大きな声を出しました。その時の場と申しますと、当方はいつもの3人ほどで居酒屋でやっている時に、隣の席で飲んでいた此方よりも年の上で、少しは顔見知りのグル−プでの噂話の中で出ました。

私はその噂の人は事業が左舞になって貧乏したと耳にしていましたので、張り子の虎ということは威勢を張り縁起の良い状態と解釈して、何処かに場所を移して、また盛大に事業を再展開しているのかなと思いました。

そこで私は、先述のあるおっさんに話を正してみると、おっさん曰く 「力もないのに強そうに見せかけだけで、ただ張り子の虎のように首を上下に振るだけで、たいして技量を持たないので、商売が行き詰まったんや」 ということであった。

私は、張り子の虎とは、威勢の良い方の解釈を今までしていましたので、ネガティブな思いはありませんでした。

そもそも張り子の虎は、見た目には虎であるが、紙や竹で細工された中が空洞のおもちゃである。 また、張り子の虎はよく首が振り動く仕組みになっていることから、首を振る癖がある人を指して、張り子の虎となぞえて見掛け倒しの人と見下した言い方をするようであるらしい。

一方張り子の虎は、5月になりますと、端午の節句で張り子の虎を床の間に飾る風習は昔から多く見られます。 元々虎というのは神の使いとされている動物だったため、魔除けや厄除けとして重宝されたりしていました。端午の節句は男子の健やかな成長を願う節句なので、子供の健康のために、張り子の虎が持ち出されて、縁起の良い象徴とされてきました。

このように張り子の虎には、「人を少しアホにすること」と「魔除けや成長祈願として使われる縁起物」の2つの意味があるということですね。私は子供の頃から今まで、縁起物であると思って来ましたので、急に想いを転換できませんけれど、今後は他人から「張り子の虎」と言われない様に気を付けて参りたいと思っています。


 第477話 開いた口へ牡丹餅

令和 2 年 4 月 15


開いた口へ牡丹餅と、棚から牡丹餅は同じ意味をもつ諺ですね。ただ大阪の南河内育ちの者には、「たなぼた」と短く縮めた言葉を多く用いています。

いずれにいたしましても、思いがけない幸運が向こうからやってくる様子を表したもので、言葉の説明は何ら必要のない語であります。

さて、この牡丹餅に付いては、調べてみれば諸説があるようですね。

牡丹餅の作り方は、もち米とうるち米を混ぜたものを、蒸すか又は炊き米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに、餡をまぶします。 赤小豆餡をまぶしたところが、牡丹の花に似ていることからこの名が付いたようです。

円くて大きいものの例えで、女の丸く大きい顔を、牡丹餅顔と揶揄されましたが、現在はこのようなことは無いものと思われます。それは赤い丸顔の人が激減して、誰もが白い面長な顔に様変わりしたからでしょう。

また、よく似た食べ物に、おはぎと呼ばれる物があります。これにはそれぞれ、牡丹餅には牡丹の花に似せて作られたとされ、おはぎには萩の花に似せて作られたと言われている様であります。加えて春のものは、牡丹餅として秋のものは、おはぎとして名前が変わっているだけであるとも言われています。なお、関東では春秋ともに、おはぎとされている様である。

現在はスイーツと呼ばれる口に優しい食べ物が、時節を問わずにいつでも楽しむことができますが、牡丹餅は主にお彼岸の供物として食される貴重な物であったと思われます。

その牡丹餅が、開いた口に飛び込んで来たり、棚の上から勝手に舞い込んでくるのだから、予期しない幸運に歓喜するのも当然の事であります。

新型コロナウイルスとは、大小の差がありますが、形や色には類似するものが有ります。違うのは、人の命を脅かす厄介者か、人を幸せにする恵みを齎す食物かの差であります。


 第476話 そもそもから

令和 2 年 4 月 1


そもそもから着きにけり迄

そもそも とは何やろうと改めて辞書や Web サイトで調べてみれば、言えることはただただ難しい言葉であると言う事だ。そして結果として何も分からない。そもそも浅学菲才な私が考えようと思った事が「そもそもの」誤りであったと言う事らしい。

そして、「そもそも」とはと頭に置いていると今まで気にしなかった「そもそも」が新聞を読んでいると、政治面からエッセの文面に実に多く使われている語である事に気が付いた。プロの物書き屋さんに多用されているということです。

しかし、世間一般の会話の中では、そう耳にすることは無いようです。しかし、雲の上では使われているらしく、3年ほど前に、 安倍首相が国会審議で、「そもそもの意味を辞書で調べたら「基本的に」という意味もある」と答弁したということがありました。この「基本的に」と直訳することは滅多にない、という説を

どこかで読んだような気がします。つまりかなり難しい語であることは確かです。

どうやら日常茶飯語ではないらしいようです。 「そもそも是は・・・」は、謡曲、舞の本、浄瑠璃などでは初めに出てきまして、「何々の浦に着きにけり」と、フォーマットされているものらしい。そしてその意味は、最初から最後までということで、謡曲などが「そもそもこれは」で始まり、「着きにけり」で終わることが多

い。

ある書物から引用しますと、「そもそも」という語には、二つの意味があって、 接続詞として、「いったい」とか、「さて」、「だいたい」などという意味があり、もうひとつは名詞として使うものとして、はじめ、最初、発端などといった意味である。「何々したのがそもそも間違だ」という具合に使う場合がある。

いろいろと書き並べてはみましたが、そもそもは、誰でも知っている言葉ですが、意味を説明するとなると難しいです。 例えば、 「そもそも何で買ったのですか」 「そもそも問題の意味が分かりません」 のように使いますが、 そもそもが なくても文章が成り立ちます。 「何で買ったのですか」 「問題の意味が分か

りません」でもよいと思います。 しかし、「そもそも」があるとないとでは、細かい感じが変わってきます。 言いたいことは通じますが、さらに会話の表現を広げるためにも「そもそも」という言葉は必要な言葉ですよね。

そもそもと、大して手間もかからずに、4文字を使うことでより感情が上手く伝わるならば、無事に「何々の浦に着きにけり」とよい終演となります。

そもそも新型コロナウイルスは、早々に武漢の浦に着きにけり と収束する事を願います。


 第475話 君子は和して

令和 2 年 3 月 15


3月半ばのこの時期には、新型コロナウイルスさえ無ければ日本の社会では、進学・卒業や入社、人事異動、退職と多くの人が別れと出会いを経験することになります。

そこで日頃の自分を少し距離を置いて、今回のお題を見つめ直すのもいかがと考えました。つまり、人の間で生きる形を赫々たるものにするということです。

君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず

今回のお題の意味は、人格が立派だと言われる人は、人との社会に於ける調和を大切にするが、人の意見に引きずられて正しい自らの考えを曲げたりはいたしません。

それとは反対に、あまり社会的に認められない人はと申しますと、、人の意見にすぐ同調しますが、損得が絡んで意見が分かればすぐに揉めたりで、なかなか人との調和は難しい人かと思います。

まあ、しかしわれわれ日本人は誰もが「和をもって尊し」という精神を大切にしている美徳の一つであります。気分のよい、ほんわかした雰囲気の中で生きて行くことを望み、何事にも殊更ことを荒立てずにうまく調和して生きていこうとしています。

しかしながら時代の趨勢とやらで、現在はいわゆる新聞の3面記事に出る犯罪や、大きくは日本という国が世界で生きて行く上に派生する諸問題を見渡しても、和の有り様の方向を舵取りしなければならない時を迎えています。憲法改正の議論が持ち上がるのも当然かと思います。

一方、自分はと申しますと、 人当たりは良い方だし表面的には誰とでも仲良くできるものと思っています。しかし、ざっくばらんに何でも言い合える関係の中でも、人の意見に引きずられてすぐに自らの正しいと考える意見を撤回してしまいます。和して同じる、優柔不断の 小人そのものです。


 第474話 分相応に風が吹く

令和 2 年 3 月 1


分相応に風が吹く

花の三月となりました。冬の寒さから、じわーっと解き放される解放感は、春が来たという言葉から心身が順応しまして、何かわからぬ小さな幸せを覚えさせてくれます。

幸せは春風に乗って、とか言う歌か曲があったかと思いますが、春と風は絶妙の幸せコンビですね。

まあ、その風も真夏の太陽が衰えだす頃に現れる風は、取り敢えず棚の奥に仕舞っておきましょう。

さて、今回の 「 分相応に風が吹く 」 の風はと考えますと公明正大な万民の味方のような存在であります。

ここでの分は、人が社会的に置かれた地位や身分のことを指しています。それで人はそれぞれの置かれた立場や、能力に応じて、その人にふさわしい 生き方や暮らし方があるのであります。よって人には、豊かな者には相応の出費があり、貧しい者でもそれ相応の生活ができるということです。

しかしながら人は、欲を言えば限りがありませんが、少しでも目を上に向けて、その欲をかなえるべく努力を行うことが必要であります。その為には日頃から今出来ることに取りかからなければなりません。その努力が欲とする事柄に直接は関係なくとも、その行動がいつかは目標の糧となり、欲する事の実現に一歩近づくことであるという教訓です。

だいたい、人にはそれぞれ立場や境遇に見合った暮らし方があり、世帯の規模に応じて、それなりの出費や事件があるという。たとえば、大きな家には大きな風が当たるように、人にはそれぞれ境遇に応じた悩みを持っているもので、金持ちの大きい屋敷にも、それなりの心配事があるものである。

このように、人にはそれぞれの生き方や才能があります。よって自分の能力を他人と比べるのではなく、自分の持っている生きる力を十分に知り、それを生かすことが、充実した人生を送ることができるということです。


 第473話 背番号 19 野村克也

令和 2 年 2 月 15


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この野村監督 (以下故野村克也氏を時代背景なしで野村監督とします) のサインは、昭和30年にもらいました。野村 監督が南海ホ−クス入団2年目。私かっちゃんは、小学6年生で当時に南海ホ−クス子供会に入っていました。

ホークスの 2軍選手が子供会の会員を集めて遊んでくれるのですが、1軍の蔭山や木塚、堀井なんかがもし来たらサインしてもらおうと、サイン帳と万年筆は子供会行事に行く時はいつも持参していました。

ある日、名前も顔もよく知らない若手選手の中に、優しく言葉をかけてくれた選手にサインをしてもらいました。サインを見ても誰かが分からず、名前を聞く勇気もなくその日は過ぎました。

暫くして家で新聞に載っていた南海ホークスのメンバー表で、2軍に野村克也という選手がいることを知りました。それは、サインの字で私の名の 克 と同じ字を読むことが出来まして、 也 は良く分かることから 野村克也 と分かりましたが、野村監督も当時は全くの無名の選手でした。

しかし、その2年後には野村監督はパ・リーグのホームラン王となったのです。その後20年ほどして、超有名になった野村監督と顔を合わす機会がありまして、写真のサイン帳を見せましたが、ただ 「そーかぁ」と声をかけてくれただけでした。


野村監督の大阪球場での数々の思い出シ−ンでは、自信の無い記憶ですが、昭和38年シ−ズンの大阪球場での最終試合で、パ・リ−グか日本記録かわかにませんが、52 号ホ−ムランを左中間に放しました。低い弾道でフェンスの最上部に当たり、そのまま観客席へと吸い込まれました。例によって私は

ライト側の 外野席で 見ていましたので、その一撃はいまだに記憶に残っています。その年には野村監督はパ・リーグのホーラン王に輝いています。

それから後は、大阪球場の正面に野村監督のアメリカ製の大きな車があり、出待ちをして一言喋るのを楽しみにしていました。大きな車に乗るのは万が一の時に身を守る為だと聞きました。これはおそらく昭和50年前後の事と思います。当時はライト側外野席に集まる、お馴染みの諸兄グループ活動でした。


★ I D 野球は、尾張スコアラ−とブレイザ− の賜物

今や ID 野球といえば、野村監督の特許か独占的な捉え方がされていますが、決してそうではないと私は思っています。我が国のプロ野球における ID野球の発端は、野村監督が南海ホ−クスで頭角を表したころには、既に尾張久次氏が務めていた毎日新聞社を退社して、鶴岡一人監督に招聘されてスコア

ラ−として 南海に採用されて、綿密な記録整備に務めました。やがて他球団の分析をも鶴岡監督に、尾張メモとして報告するようになった。ここで鶴岡監督の下で、キャッチャ−として守りのデ−タ−、そして打撃のデ−タ−として野村監督はいかんなく発揮して、戦後初めての三冠王まで登りつめるのである。

次に、昭和42年に南海ホ−クスにメジャ-リ−ガ−のドン・ブレイザ−が入団した。ブレイザ−といえば入団直後はサ−ドの守備位置に着いていたが、とにかく凄いプレ−ヤ−が来たと思った。それは大阪球場ではホ−クスは一塁側ベンチに座っているが、守備に着く時にベンチから三塁キャンバスまで、見たこ

とのないダッシュで突っ走る超真面目なプレ−ヤ−であった。そんな具合であるから何をやるにも一生懸命だ。ブレイザ−には野球の守備に於ける連携プレ−も徹底的に叩き込まれたと、当時ホ−クスの名遊撃手小池兼司が語っていた。 いわゆる、ブレイザ−のシンキングベ−スボ−ルである。氏の名言に「

両耳の間を使え」がある、つまり頭を使えということである。 野村監督は、ブレイザ−から頭を使う野球を貪欲に吸収するようになった。

I D 野球は、鶴岡監督と尾張スコアラ−それにブレイザーがあってからこそで、野村監督だけが偉いのではない。


★ 南海ホ−クスと袂を分ける

野村監督が育ったのは、南海ホ−クスでである。なるほど監督職としては、後世ヤクルト、阪神、楽天であるとしても、何故に南海ホ−クスでの経歴をここまで反故にされているのかです。

南海ホ−クスの絶対的なドンである、鶴岡一人監督との間に何があったのかである。報道でしか知ることができませんが、 野球で揉めたことは聞かない。やはり2年前に他界した夫人のことであろう。これまた報道の中では鶴岡監督や比叡山の高僧に諫められたのに聞かなかったとされている。

それに加えて野村監督が南海ホ−クスでの晩年には、チ−ムの中心的な数人を集めて憩い、何をか知れないが夫人が口出しして球団をあらぬ方向へと向かわせたとされている。これで野村監督は南海ホ−クスから絶縁状態とされてしまうのである。

大阪球場球場の跡地に建てられた、ナンバパ−クスに、南海ホ−クスのコ−ナ−が設けられたが、その中には野村監督の名は一字も見ることができない。


★ 今は南海ホ−クスはありません。しかし、京セラド−ムでのソフトバンクホ−クスの試合では、三塁側スタンドで、南海ホ−クスの応援歌、応援旗、レプリカユニホ−ムの姿が多く見られます。

私は、ホ−クスファンです。ダイエ−から更にソフトバンクに代わっても、ホ−クスがある限り ホ−クスファンです。背番号 19 野村克也は、ホ−クス生まれの野球人でありました。



 第472話 シルバ−川柳

令和 2 年 2 月 1


つい先日のことである。近所の眼科医院へ白内障の予防薬をもらいに行きました。その待ち合いで、活字の大きいそうな本を1冊手にしました。

その本の名前は シルバ−川柳 と書かれていました。川柳の定義なぞ全く知らないのですが、これがまた後期高齢者の私をグイグイ引き付ける名作が満載です。

その中で思わず ぷっ と噴き出したのが 「 シタ出して  女医に言われて  ギョッとする 」 である。

なるほど私が仕事が現役の時には、仕事場の周りにも女性は居たし、夜の街に繰り出して遊んだりしていて、それなりに女性と触れ合う機会もありましたが、今はと申しますと普段には女性とは縁遠い日々を送っております。

加えて現在は女医さんも増えているとは聞きますが、私らの年代者には女医さんと対峙することはありませんでした。最近ではテレビのバラエティー番組にも美人女医の登場をよく見かけます。

まぁそのような状況のもとで、何々さんどうぞと呼ばれて診察室に入れば、そこには若い女医さんが居られたら頭の中は受診に来たこともすっかり飛んでしまい、無防備となつています。そこで 「シタ出して 」 言われたら良からぬ方向に思考回路が舵を切るのも有り得ると思うのも無理からぬことと思えば、川柳の作者を褒め上げたいと感心した。

今一つ、「 日帰りで 行ってみたいな 天国に 」 これまた絶賛に値すると思いました。少し前に NHK の放送番組で、確かちいさなお葬式とかいうのがありました。また、近頃は葬儀場の見学に誘うパンフレットも見かけます。確かに天国を短時間でもよいので、どんな具合なのかを見てきたいと思うし、その前段として葬儀で送られる自分を予め体験できたとしたら、それこそ後の余命もかなり有意義に時間を送れるかと思います。

地獄八景亡者戯 故桂米朝の名演を枕もとの CD で聞きながら、とりあえず今夜は寝ようとするか。


 第471話 枯れ木も山の賑わい

令和 2 年 1 月 15


枯れ木も山の賑わい

私は、後期高齢者となりまして1年が過ぎました。 まさしく、どのような場に出ていっても、抵抗なく自らを 「枯れ木も山の賑わい」 ですと自己紹介が出来るようになりました。

ここで自分の事を 「枯れ木も山の賑わい」と言葉にすることは何の問題もありませんが、言葉の使いようととすれば、老人が若者の仲間に加わる時などに、枯れ木も山の賑わいですので私も参加させていただきます、と謙遜して使う言葉でありまして、例えば司会者などが他人を紹介する際に、その人を指して、「枯れ木も山の賑わいと言いますから高齢を気にせずに是非参加してください 」 などと言うのは、本来は失礼にあたりますので注意が必要であり、特に目上の人には使ってはいけないことになっています。

またこの語に関して、国の国語調査では、半分の人がこの言葉の意味を 「人が集まれば賑やかになる」と考えているようで、本来の意味である 「つまらないものでもないよりまし」 を上回っている結果がでています。

もともとの語源とすれば、何もない殺風景な山よりも、枯れ木でもあればいくらかは山に風情を添えるものであることから、つまらないものでも、無いよりはあるほうがましであるということらしい。

さて、自分が後期高齢者となり集まりの他の人から視線を受けたおりには、 「つまらないものでもないよりまし」 と見られるよりも 「人が集まれば賑やかになる」 の方が嬉しく思うのは、私の思い上がりでしょうか。

大切なことは、自分自身が 「枯れ木も山の賑わい」 をよく理解して常に、若葉や青葉を決して押しのけて前に出ない様にしなければなりません。されど人生第四コ−ナ−を回ってからが、一番難しい。


 第470話 千載一遇

令和 2 年 1 月 1


---------新年 あけまして おめでとうございます-----------
-----本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします------


千載一遇 (せんざいいちぐう)

年の初めにあたりまして、少しはおめでたい、楽しい夢を手に入れるお話をしたいと思います。

千載一遇は、せんざいいちぐうと読みまして、一生の内でも 滅多に訪れそうもない良い、二度と来ないかも知れないほど恵まれた機会に出会うことを言います。載は年と同じで、一遇は一度だけ出会う思いがけない出合いのことです。つまり千年に一度偶然訪れるくらいのよい機会という意味となります。

この語のもとは、思いもしない素晴らしい人、またはたいそう偉い人などとの出会いを、千載一遇とされたようですが、現在は拡大解釈をされ、あらゆる機会でのチャンス到来で使われるようになりました。素敵な異性との出会いなどに使うケースも多いようです。

このように、千年のうちにたった一度しかない、またとない好機、チヤンスを見逃さないようにしなければなりません。

そこで思い浮かべてほしい歌があります。北原白秋の「待ちぼうけ」です。 ある日農夫が畑で一生懸命畑仕事をしていると、勢いよく走ってきた兎が畑の中の切り株にぶつかり、その兎を運よく得ることができました。いわゆる成功体験が転がり込んできたのです。それからは農夫はせっせと汗を流して働く事をやめて来る日も来る日も畑の外で兎が株にぶつかるのを待つようになりました。やがて畑は荒れ放題となり、村人からは相手にされなくなり、ついに哀れな人生を送ることになったのです。

世の中には、偶然にうまくいくことがあります。でも、その偶然が続くことは滅多に ありません。

しかしながら、千載一遇は、人の寿命が幾ら延びたとしても到底千年も生る訳でもありませんが、何時か誰かに巡ってくる有るかどうかの好機を見逃してはなりません。その為には滅多にない機会を捉える気構えだけは常に備えておく必要があります。この気構えは決して、待ちぼうけの農夫であってはなりません。石の上にも三年とか、雨垂れ石を穿つの精神的な努力の上に一隅は宿るものです。

ぼーと生きてて、千載一遇の絶好機を見逃さない様に、今年は六感を研ぎ澄ませて、無駄のない日々を送りたいと思っています。






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