ちょっと小話コーナーShort Story
ご感想やご意見は、掲示板で待っています。

第422話 一年の計は 第423話 塩辛を食おうとて 第424話 梅一輪
第425話 一か八か

第426話

反面教師 第427話 君子危うきに
第428話 附和雷同 第429話 泥棒せぬは 第430話 小田原評定
第431話 問うに落ちず 第432話 Kerry 第433話 柳に風
第434話   第435話   第436話  
第437話   第438話   第439話  
     
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 第433話 柳に風

平成30年 6 月 15


いつもながら、分かってはいるものの、また今回の諺も人が生きて行くうえにおいては、大変難しいお題です。

よくある人生訓には、その題目を実感として目の当たりにすることが出来ないものが多い様ですが、この「柳に風」は誰でも風景として見ていることと思います。他に柳に関しては「柳の下に鰌」がありますが、これは滅多に目にすることはありません。

さて、柳に風とは柳に風が当たれば、その風が優しければそれに寄り添って靡く様に、仲良くお付き合いという感じで誘っています。また、相手が強い調子であったとしても、あまり気に留めることもなく、さらりとかわして巧みにやり過ごして、真面に喧嘩もせずに上手にやり過ごします。よって災いを受けることも少ないかと思われます。

このように、柳は風に逆らって無理してまで踏ん張れば、幹が折れたり根元から倒れてしまうことをよく知っているのですね。人の世にあっても、力を入れて踏ん張りすぎて心が折れてしまい病に倒れてしまうケ−スがよくあります。それならば、 強い風が吹いたらその場は流されて揺れてしまってもいい、柔軟に対処して、やがて風がやんだらすぐに立ち直ればよいことではないだろうか。そんな「しなやかな強さ」を身につけることが出来たら人生もまた楽しからずやですね。

誰でもイヤな事や問題に出遭ってしまったら、心が揺れて、全然動揺しない人なんてありえないのです。しかしながら柳のしなやかな強さは、風がやんだら素早く立ち直る有様です。 この様に済んでしまったことの余韻に流されずに、普段の自分・本来の自分に素早く戻ることが大事なのです。  

まあ、そのためには いざという時に活躍できる実力を 身につける必要があります。 だからこそ、些細なことには 柳に風と受け流して、 大切なことに力をいれるのがいいということです。柳に風流のしなやかな強さのよいところは、上手に揺られて、これが我が定めと考えて生き己の分際をよく知っていることにあると思います。
 


 第432話 welcome Kerry

平成30年 6 月 1


============================== === Kerry (♂) 1歳1ケ月 ===========================

先月の6日に、約3年ぶりで我が家にラブラド−ルがやってきました。

飼い主となる私は、現在満74歳となり後期高齢者目前の今、新たに犬を飼い始めるには相当な決断力が必要でありました。私と犬の余命を考えますと、昔からラブラドゥ−ルの平均寿命は12年ぐらいと言われています。そこで計算をすれば私の場合には、74 + 12 = 86 歳となり犬の飼育が心配となります。

楽観的なものの考えは、ラブは何とか5歳くらいまで育てますと、後は本当に手のかからない家族の一員となる資質を持ち合わせた犬であると考えます。

当分は、朝の散歩や夕方の散歩に加えて、常時排便状況への気配りや、屋内外での犬の習慣を把握して、躾ける手間は大変ですが、それは楽しみででもありますので Kerry と仲良く続けていくつもりです。

今は、夕方の散歩には狭山池を一周で約 3.5 qを 1時間ぐらいをかけて行っています。先代の権太郎が仲良くしていた犬や飼い主の方とのコミニュケ−ションが楽しく、今回の狭山池散歩へのカムバックを喜んでいただく皆さんとの会話が楽しいものです。半数ぐらいは相手の犬の名前を憶えていますが、また新たに犬友としてお付き合いの始まる方もあります。

私は、今冬期から掛かりつけ医から運動不足を指摘されていまして、その解消となるべく歩行のペ−スを考慮しながら Kerry と歩けるようにしています。

まぁ、家内や息子、娘の後押しを受けながら、Kerry と暮らして参ります。


 第431話 問うに落ちず

平成30年 5 月 15


問うに落ちず語るに落ちる

問うに落ちず語るに落ちるいう諺は、自分が心密かに止めておいて誰にも言うまいと秘密にしている事柄については、誰かに聞かれたとしても用心して口外しないものですが、自らの講釈話や自慢話に乗じて話し出した時にはついうっかり口をすべらせて秘密を話してしまうことを言います。

この様に、「語るに落ちる」の意味は秘密などは聞かれても用心して本心を言わないけれど、自分から話し出したときはついうっかり口を滑らせてしまうというものです。  

ここで言う落ちるとは、警察用語で取り調べにおいて容疑者がその犯行を自供することを「落ちる」と言います。「問うに落ちずに語るに落ちる」の落ちるは、このようなことです。

それにしましても、世の中には聞き上手で、相手から何でも話してもらうことが得意な誘導上手な人がいますね。もう半世紀以上も前に連続テレビ小説に「部長刑事」という名の放送がありましたのを思い出します。物静かで優しい部長刑事が人情味豊かな話法で容疑者を説く場面は、多くの視聴者から絶賛の人気を得ていました。

ドラマではなくとも、人は歳を重ねればそれ相当の語りたくない良きにしろ悪しきにしろ心の奥の深いところに、そっと仕舞ってある秘密はあることと思います。それを今回のお題の通りに、語るに落ちて一つ、そしてまた一つと語り老いを重ねる頭を軽くすることが終活人生が幸せであるのか、それともある程度の秘密を、ギュと圧縮して蓄積したままにして置くのが、生きる張り合いのエネルギ−になり幸せなのかは、誰にも分らない難しいテ−マであると考えます。私は後者を選び、その管理能力が絶えた時が、命を終えるとしたいと今は思います。
 


 第430話 小田原評定

平成30年 5 月 1


頭の中の小田原評定

歳を取ると、頭が回らなくなるのは、今こうして使っている PC とよくにています。特にコンピュ−タ−関係の人でない一般的なお話としましては、 PC を新しく買った時の最も身軽な状態としては、コンセントを差し込んで、スイッチをオンにしますと、ともかく PC 自身が何とか起動すためのプログラムを備えて、PC を使う人の所へとやってきます。これをコンピュ−タ−を動かす基本ソフト(OS)と呼ばれています。

それに対して、ワ−プロ・表計算・デ−タベ−スなどのためのソフトウェアをアプリケ−ション・ソフトとよばれます。

凡そ人が持ち合わせる OS は、オギャ−と鳴くとか、摂取・排尿に始まり歩行をするまでの過程は、 OS の範疇かと考えます。次に人間は、始めはだれも等しく家庭教育をうけます。それ以後は学校教育に合わせて社会の中で教育されて成長します。その間には PC に例えばアプリケ−ション・ソフトと言われるものに等しい生きてゆくための道具や知識が人それぞれの思考により、取得されます。更にいわゆる DATA と言われる人の生き様で得た莫大な知恵が蓄積或いは堆積されて参ります。

PC なら不要なアプリや DATA は DELETE かけてさっぱりしたり、型遅れになれば新機種に買い替えますが、人という生き物の場合は、そうもゆかずに、古くなるほど手間がかかる上に、威厳という要らぬ鎧に身を包み込みます。

おそらく小田原城には、機種更新がなされていないまま古い CPU で、古いアプリが、堆積された古い DATA を熱だけを発散しながら、結果の出ない無限ル−プに嵌まり込んでいたのかと思います。このことがいわゆる豊臣秀吉の手によって小田原城が陥落に追い込まれて、北条氏が滅亡することになりました。

北条氏政は、信玄や謙信が小田原城に侵攻したおりには、籠城を決め込んで一切出ずに退けました。それを知る氏直は、信玄や謙信に代わって秀吉が来たのに、相変わらず敵の兵糧は昔と同じ二週間が限度らしいと読み、秀吉の莫大な資本力である金銀や米の尽きることない底力を把握できていなかったとされています。先々代の氏康のように聡明さが在ったら、たぶん氏直も PC の機種更新をして、秀吉の軍事力を演算していたならば、北条氏も滅亡されることが無かったかもですね。しかし仮に生き残っていても、その後の関ケ原後では相当強力なス−パ−コンピュ−タ−を導入しなければ、家康をどう潜り抜けるかは問題の尽きない時代です。

北条家の PC に劣るとも、勝らない我が身の PC も背丈の一番上部に君臨はしているけれども、心臓から高い位置にある為に血液循環が乏しく、上述の通り無益なアプリや不要な DATA がぎっしり堆積した状況にあって、とにかく判断が鈍くなり、すぐに短絡して カッ となる回路に無用な潤滑油を指したり、団扇で扇ぎながら冷却に努めています。下手な考え休むににたり、であり何を考えても無駄な思案にただ時間を費やすだけの昨今の暮らしであります。


 第429話 泥棒せぬは

平成30年 4 月 15


「泥棒せぬは氏神ばかり」

氏神様にも広く考えが及ぶところでありますが、ここでさらりと住む土地の鎮守の神様である氏神様にご登場していただきます。

万人が崇める神様は、特に氏神様のみならず全ての神様が曲がった事は絶対にしない存在であります。従いまして神様を除けば、人間はどんな人でもいくらかは盗み心を持っているという諺です。強奪や強盗となれば話は別ですが、 すこしも生活に困っていない人がス−パ−で万引きしたりするのも、もとはといえば人に盗み心があるからと思われます。

しかし、これも最近社会問題の一つである学生・生徒等の若者による万引きは、許される範囲を大きく遺脱した犯罪であると考えます。それは出来心とか、魔がさしたという具合ではなく初めから遊ぶ金、或いは何か欲する物を買うべく金を得るという明確な目的を持って行っている行為であるからです。人間の本能の片隅に存在する、盗み心とは全く性質の異なる犯罪として罰せられるのが当然であると考えます。

盗むには、人の女房を盗んだり、人の旦那を盗んだりするのも、これまた皆さんが思っておられるよりも実際の方が多くの件数があるものと推測されています。身内とかご近所様にはそのようなことは無いものと思っていても、職場の世界や趣味の集まりの場においては、誰でもそのような事例を知り得ていることかと思います。

この盗みをすることは、人間の本能の部分に潜んでいるもので、決して理屈だけではかたずけられない性分であります。盗みはバレなければその快感は蜜の味ですが、一先ず明るみに出たならば御用となって取り締まりのお世話になり、社会で生きて行くには大きな信用失墜となります。それでも泥棒が世に絶えないのは、有名な方の言葉として「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きず」と古くから認められていることです。更にやっかいな問題として存在するのは、普通の盗み、つまり泥棒程度で御用となっても大した刑罰が罰せられることがないことです。窃盗の罰は軽いのであります。

なぜそうであるのかと考えてみれば、社会を著しく乱したとまでは言えないことに加えて、お題の様に泥棒せぬは氏神ばかりのごとく、凡そ誰にも持ち合わせる罪を皆さんに百年の刑に罰すれば、家族も隣近所も人が居らずに崩壊して、残るのは塀の中の刑務所だけとなります。米を作る農業を始めとして電気を作る発電所も動作せず、これではどうしようもないということで、「泥棒せぬは氏神ばかり」とたいした大罪とされなかったのでしょうか。
  


 第428話 附和雷同

平成30年 4 月 1


雷が鳴るのは、夏季に限られたもと子供の頃には思っていました。それにしましても、現在は季節とは関係なく雷がよく鳴るようになったと思うのは、私だけでしょうか。天気というのか気候というのか地球温暖化という言葉とともに、変化の一途を突き進んでいるようですね。

私が生涯を通して趣味として多くの時間を費やしているものに、アマチュア無線があります。この交信にはいろいろとありますが、いずれにしても絶対に必要となるのが、電波を飛ばしたり、又は受信するためにはアンテナが必要です。このアンテナの天敵となるのが「雷」と「台風」です。

運悪くアンテナに落雷しますと、まず無線機を壊してしまいます。そして最も被害が大きいのは家屋を焼失することになります。長い間には知人が無線機を焼いたこともありました。

皆さんは避雷器の設置や、雷が予想される場合にはアンテナ線を外すなり、それぞれが努力をされています。低く小さいアンテナで辛抱すれば、台風にも雷にも狙われる機会がずっと少なくなりますが、アマチュア無線家は誰でも大きなアンテナを高く揚げてより遠くへと電波を飛ばしたいのが夢です。

いきなり雷についての書き出しとなりましたが、雷は今回のお題にある「雷同」のごとく、あの光陰と轟音でもって人はもちろん動物も、植物に至る全てを服従させる力を持っています。ただ科学者のベンジャミン・フランクリンだけは別人ですね。

また、「附和」は広辞苑によりますと、定見なく、他に付き随ってあいづちを打ち、わけもなく他の説に賛成することとされています。

この様に附和雷同は自分に一定の定見がなく、ただ他の説にわけもなく賛同することです。しかし、自分に明確な意見を持たない場合には、他の人に迎合することが、悪いことだとは思えません。 人の社会で生きる為には潤滑油として必要なこともあります。 ただ、そんな時でも、自分を見失うことなく生きて行きたいものです。

多数意見に迎合することと、附和雷同は必ずしも同じ意味を持つものではないとも考えますが、附和雷同を、悪い意味ととるか良い意味ととるかは、時と場合にもよるところがありますね。

どのような会議の席であったとしても、一度ぐらいは意見を述べる気構えを持って臨むことが大切なことであります。普通には、口を出したら使役か金が後で伴うことが多くて、そこを思案して黙るのが日本人の風習でありますが、書き出しの地球温暖化の如く己の権利の主張ばかりを軽く口を出す最近の風潮には憂慮することが多い。


 第427話 君子危うきに

平成30年 3 月 15


君子危うきに近寄らず

論語に「君子に三戒あり」というのがあります。
人格者がみずからの戒めとする三つのこととは、一つは青年期における色欲、一つは壮年期における人との争い事、一つは老年期における強欲、この三つを言う。

さて、人にとって危うきこととは何だろうかと考えますと、逆に危うきにあらず事以外の事となり、ちょっと考えただけでは思い当たる例は皆目である。高度成長期の時代にはよく言われたこととして、寝床で寝ていてもトラックが突っ込んで来るという例え話をよく耳にした。昭和20年代ではトラックなんてまだまだ目にすることが少なかったが、時代が進んで有り余ったトラックが道から逸れて寝床まで迫ってくるようになりました。まぁ現在あちこちのコンビニなんかにアクセルとブレ−キを踏み間違えて突っ込んで来るのとは、意味は全然ちがいますけれど、物騒な出来事であることには違いがありません。

しかし、危うき物騒な事にもいろいろありまして、先述の三戒とか本題の危うき事とは、己が積極的に仕掛けたとは言えないにしても、危うきに足を入れ込んだのは自身の心身による行動であると考えます。

もう悔いても仕方のない事ながら 青年期における色欲を、そっと制御できる分別を持ち合わせていたなら良かったのになと、頭の中で思いが過ります。

壮年期における人との争い事には、勝ってなんぼ、負けてなんぼというような具体な事は思い付きませんが、考え方の相違が拗れて友を失いました。

そして今は強欲の二文字と縁が出来ないようにと注意深く暮らす毎日でありますが、何時突然に角を出すかはわかりません。

こうして見れば「危うきこと」を見極めることの難しさを思い知らされます。きっと危うき事を予め認識する度量があれば、人は誰しも安易に危うき事には近寄らないはずです。


 第426話 反面教師

平成30年 3 月 1


この反面教師という諺は、かの毛沢東によって考え出された言葉で、指導する立場の教師に著しい欠点があって、その教師を見習うのとは真逆に「絶対に真似したくない」と 思わせる教育方法を採ったことを指している。

学校などの学びの場のみならず、反面教師の考えは一般社会に於いても有効な教育手法として用いられるようになり、組織内に劣悪な者や間違った者がいたならば、無理に即矯正したり排除するのではなく、組織内に留めて、他の内部者にその拙劣な状態を見せ付ける事により組織の浄化や個人資質の向上を図る手段として広く使われた。現在のようにコンプライアンス順守の環境社会にあっては、少し方向性が異なっているかもしれません。

言うまでもなく人間は一人ではなく社会の中で生きているものですから、前述の学校や社会という大きな組織でなく、社会の最小単位とされる家庭から 反面教師の出番が始まります。

私自身の話としましても、幾つも記憶に残るものがあり、その中でも特筆するものがあります、それは。

人が集まる場に於いて大抵発生しますが、集まりに酒が加わった時にはいつも誰よりも甲高い大きなこえを張り上げて場を取り仕切る親父。

そして家に帰れば、その場に居た者は皆んな無知で自分が一から十まで教えてやったと家族の前で自慢話を繰り返す親父。それを家族が諫めても効果なしの有様。

そんなイヤな親父の許で育った自分としては、どの様な場合に於いても口喧しい人間にはならないことを座右の銘としてきました。

しかし、私が30歳代も過ぎて、やがて40歳代になるといつの間にかその親父のイヤな性格が身に付いて、見事に火山の噴火のごとく現れているではありませんか。

特に酒の後に同僚などと分かれて一人となり、帰りの電車の中ではああ今夜もやってしまった、と頭を抱える日が多くなりました。 この様に頭を冷やす時があったので、家庭では大人しくしていました。

まあ、反面教師と言えども、遺伝子には勝てなかった自分の半生を振り返って見ました。


 第425話 一か八か

平成30年 2 月 13


「一か八か」 の由来は賭博の「丁と半」 からであり、一と八とは、丁の字の上の一部分と、半の字の上のハを取ったものとされています。つまり、1 か 8 ではなくて、あくまでも「丁と半」であるらしい。

また、一と八のどちらが良くてどちらが悪いということではない。真っ先の一が良いのか、昔から末広がりの八は縁起のよい数字とされていますが、一と八のどちらがよいのかは軍配の上げようのない問題であります。

それにしても仮に今、一か三か とか、二か九か と言ってみても人生の岐路を決める思案時の掛け声としては、いささか力の入らない口調で、大いに一か八かは、格好の良い響きであることは確かですね。なんであれ、数字の 1 と 8 として多くはイメ−ジされているのではないかと思います。

他にも数字を用いた諺として、四の五とうるさい、三五の十八 二九の十六 等がありますが、やはり 「一か八か」 は有名です。

さて、一か八かやってみる、という言葉はあまり小学生の年齢では聞かれないかと思いますが、大人の世界では特に賭け事を生業とされている方々以外の極普通の皆さんにも気軽に口から発しておられる様に思います。

そう大層なことでなかっても、掛け声として 「一か八か」 やってみるか・・、と言う具合に使っておられます。この諺の不思議な事は、例えば下駄を放り投げる場合は、表は南に行く裏は北に行くとか、物事の分岐の選択する時に占います。しかし、「一か八か」 は、一なら西に行く八なら東に行くといような条件が無いのに、あたかも一にするのか二にするかのような言葉とされています。

もともと、丁か半かと厳しい丁半博打から発せられた 「一か八か」 かも、平和な世界で物事の岐路決断に背中を押す、優しい大役を果たしているのです。


 第424話 梅一輪

平成30年 2 月 1


梅一輪一輪ずつの暖かさ は、ことわざではありませんが、早春に聞かれる言葉です。

梅のつぼみが一輪ほころび、また一輪ほころび、それにつれて少しずつ暖かくなって行き、日ごとに春めいてくることを詠んだ俳句であり、暖かい春を待ちわびる気持ちがよく表れています。

春になれば学校に行けると喜んだ、遠い遠い昔の思い出がこの時期には懐かしくよみがえります。2月のことか、あるいは3月になってからのことかは定かではありませんが、いわゆる就学通知が着きました。母親はそれを私に見せて「学校に来なさいというてきたでぇ」と教えてくれました。
その通知に書かれた文字は全く読むことが出来ずに、ただほんのりと喜びだけを感じた事だけはいまでも記憶に残ります。

当時と変わることのない場所に今も住まいするわけですが、その通知が来た日も雨垂れ鉢には氷が張っていましてそれを割って遊んでいました。家には梅の木もありましたが、花が一輪咲いたなんて記憶はありません。ただし霜焼けしてグロ−ブみたいな手でよく遊んだものでした。

私も後数年すれば、グロ−ブみたいな自分の手を見つめた時から、 70 年が過ぎようとしています。子供の頃には梅一輪が、春からの人生の広がりに目を向けさせていたのが、現在では、梅一輪が終活の手を抜くことのないようにと、急き立てるようになりました。

終活もこれまた、言うは易し行い難しでありまして、以前にはダイエットは明日からとダラダラしたのと同じく、成果の上がらない日々を過ごしています。

しかし、 梅一輪一輪ずつの暖かさ は一歩づつ確実にプログラムの実行をしています。また今年も梅開花のニュ−スを聞きながら、ケセラセラか・・・。


 第423話 塩辛を食おうとて

平成30年 1 月 15


塩辛を食おうとて水を飲む

これは、塩辛を食べたら喉が渇くだろうと用心して、食べる前から水を飲んでおくことを言います。

しかしこれは、手回しがよすぎて、ものごとの順序があべこべになったり、かえってものの役に立たなくなつたりで、間が抜けていることの例えとされています。確かに笑える事象に対する言葉であるかと思います。

これには、転ばぬ先の杖とか暮れぬ先の提灯のように、前もって準備することは美徳とされながらにも、塩辛を食おうとて水を飲めば、なぜ笑われるのでしょうか。事前に水を飲んでも塩辛を食べて喉が渇く事には何の効果も無いことは分かりますが、精神的には頷けます。

現在の世では塩辛を食おうとて水を飲むに似た最たるものとして、生命や損害等を金銭で償う保険制度が大手を振ってまかり通っています。 塩辛を食おうとて水を飲むのは保険であり、水を汲んで貯めておくのが年金となるのではないでしょうか。
そう考えてみれば、各種の保険制度に金銭を託しているのは、塩辛水と同じで、人様から笑われる事をしているのです。

歳と共に、過ぎた過去の失敗をくよくよ思うことと、先へのあれこれと案ずることだけは我が頭の中の錆び付いた思考回路に鞭をあてながら試行錯誤をしています。

今回のお題にしても、じっと読めばよくできた諺であると思います。たまたま塩辛を食する前の水を飲むことが笑われているだけであり、実際にはこれに似た行為は色々と日常的に行われているかと思います。

それと最近のアスリ−ト達のインタビュ−でよく耳にするのが、「試合に備えて準備しています。」ですが、スポ−ツ選手の皆さんの場合は、「トレ−ニングを積んでいます。」とか「イメ−ジ作りをしています。」とかいう具合に言うべきではないでしょうか。近年はその言葉遣いで「・・・準備しています。」という発言は、私としましては大変耳障りな言葉使いであるように思えるのです。準備とは、例えば「スパイクを名職人に誂えて準備している。」という具合に、ある事をするのに必要な物を前もって整えることではないでしょうか。

いずれにいたしましても、私も後期高齢者を間近に控えて、塩辛を食おうとて水を飲むぐらいの用意周到で丁度いいくらいではないだろうかと思案の毎日です。


 第422話 一年の計は

平成30年 1 月 1


---------新年 あけまして おめでとうございます-----------
-----本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします------


一年の計は元旦にあり

一年の計画は年の初めに立てておくのがよく、この一年には「歳月人を待たず」 を座右の銘として頑張ってみようとか、年の初めに計画や心の中での準備を整えて、それを実行せよということであります。

この諺は 「一日の計は朝にあり一年の計は元旦にあり」 とも言われていて、人の行動でとりわけ初動の大切さをうたっています。

一年の計とちょっと懸け離れたお話となりますが、私がまだ学校にあがる前のことですが祖父から大晦日にはいつも、明日は正月やから正月にはこけたり、泣いたりしたら一年中に渡ってそれが続くから、気を引き締めて、賢く正月を過ごすのだぞと口やかましく言いつけられました。この正月とは元日の1日のことであるが、それはそれは緊張して1日を過ごし、何事もなく夜を迎えて寝床に潜り込む時の安堵感は今も忘れることがありません。

その子供の頃の精神が今も身に沁みついているかのように自分では思っています。74歳で迎えた今年の正月も在宅ですが、高校生の時にただ一度だけ正月の朝からアルバイトに出掛けたことがありました。このようにじっと元日の1日を保身に努めるのは、羊年まれそのものの性格かと自分でも思っております。

この様に 一年の計は元旦にありは、一年の最初にしたこと、一年の最初に起きたことがその一年に影響するという意味にとらえている人も、多くおられます。

さて、今年こそは思って計画を立てては見たものの次に来る諺は「三日坊主」であります。これを防ぐには、誰かに宣言するという手があります。口に出して言ったからには、そうは簡単に止めることができません。

しかし、いずれにしても長続きをするのは言うほどやさしいことではありません。そこで私は大それた計ではなく、誰にでも出来る簡単な事を今年はやるつもりです。それは人生の終着駅がはつきりとピントが合って見えてきた今、日々の時間を無駄にしない為に取り敢えず、 朝飯を食ってから新聞を読み、それからやっと今日は何しようかではなくて、夜寝床に付いたら明日は何のために起きるのかを決めることにしました。そうすれば寒い朝も、少々酒が残って頭の重い朝も、起きやすいのではないだろうかと思います。

平成30年の元旦を迎えまして思いますに、何気なく平成と慣れ親しんだ元号も残すところは、この1年と4ケ月のはずとなりました。 平成も我が人生も眼鏡が無くても見える、終着駅に向かう限られた時間を無駄にすることなく、過ごしたいと思っています。


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