ちょっと小話コーナーShort Story
ご感想やご意見は、掲示板で待っています。

第494話 牛に引かれて善光寺

第495話

鳩に三枝の礼あり 第496話 歳寒三友
第497話 生兵法は

第498話

早牛も淀 第499話 火中の栗を拾う
第500話 待てば海路の日和あり 第501話 心に笠着て暮らせ 第502話 鴨の水掻き
第503話 二の足を踏む 第504話 卑下も自慢のうち 第505話 起承転結
第506話   第507話   第508話  
第509話   第510話   第511話  
           
           
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 第505話 起承転結

令和 3 年 6 月 15


起承転結

いわゆる、随筆とかエッセ−と言われる書き物や、面白いスピ−チをするには、一つのセオリ−に乗りかかって筋道を組み立てるのが最も成功への近道であると考えられています。

このことについて思い出すのは、まだ私が中学校に入りたての頃に国語の時間を受け持ってくださいました先生の事を思い出します。作文を書くことの授業で始めは配られた原稿用紙に、思いのままをそれぞれが自由に書きました。と言いましても40人ほどの生徒では、なかなか文章をすらすらと書けるもので

はありませんでした。何人かの賢い女子生徒が原稿用紙を2枚ほど字で埋めていたように思います。私なんぞはほんの数行しか書けなかったと記憶しています。

とにかくその先生は、図書室に出入りすることを勧めては、本を読む習慣を身に付けるようにと熱心に教えてくれました。やがて作文の作り方、書き方について、話の組み立ては、過去 現在 未来 と展開するようにと言われました。しかし、このことが実践できたと思えたのは、ずっと後の社会人となってから

のことでした。

さて、お題の起承転結でありますが、先の過去現在未来とも共通することは、一つの文章を作るには4つの箱を用意します。まず「起」の箱では、話題の始まりを提起します。次に「承」の箱では、提起を発展します。続いて「転」の箱では、発展させた提起を 視点を転換したり、または逆転します。そして最後の

「結」の箱では、結果とか締めくくりをします。一つの文章を四つの箱に収めるが如くの書き方をいたしましたが、当然箱の大きさは同じものではありません。

起承転結とはこのように四句からなる漢詩の構成法から生まれた言葉であります。これは文章のみならず、面白いスピ−チをするにも、起承転結があればお話もまとまりますね。ついでにお話では、興味をひくエピソ−ドの引用と、長すぎないことが大切かと思います。

まあ、それにいたしましても今回の書き出しのように、良い先生に恵まれたものの、よい文章とよいスピーチには縁の無い人生でありました。

 


 第504話 卑下も自慢のうち

令和 3 年 6 月 1


卑下も自慢のうち

内心は大枚をはたいて精一杯の気を使った手土産も、「ほんのつまらない物ですが、どうぞお収めください」と玄関先で差し出します。立派なお住まいで羨ましく存じます、と挨拶すれば「お恥ずかしい、ほんのあばら家でございます。」と会話が続きます。

このように、基本的に日本人は人に自慢話をせずに 謙遜するのが美徳だとし生きてきました。世界の事情はよく分かりませんが本当に素晴らしい日本文化の基本であります。

このことについて、私が中学校に入って英語の授業を受け始めた頃に先生が、西洋人と日本人の相違点として、つまらない物を人に差し上げるのは失礼な事であり、この様に良い物が手に入ったので差し上げますと言って相手様に渡すものだと教えられました。これから英語を勉強始めるのには、生活文化の

違いをも合わせて身につけるようにとのことでした。いつも教科書から脱線して楽しい話題を展開しながら英語に興味を持たせるようにと先生は教えてくれました。

もう、60年も前の世と日本人の心には大きな変化も見られますが、今回のお題であります 「卑下」とか「自慢」「謙遜」などまだまだ心の底には染みついた、よき日本の心も残っていると私は思います。

そんな中で 卑下も自慢のうちの、卑下は過度にならない限りはよき日本の文化で、慎ましやかとして、最も重宝な作法であるように思います。一方自慢は日本人の心からしてみれば、下等な分類になるように思います。

よって、卑下も自慢のうち を 「過度な卑下は 過度な自慢」と文字を付け加えてみれば、良く分かる語となるような気がします。

 


 第503話 二の足を踏む

令和 3 年 5 月 15


二の足を踏む

私の性格としましては、二の足を踏むことは滅多にありません。その代わり躊躇つまり、一の足を出す前には、あれこれ迷って決心がなかなか出来ないのであります。二の足を踏むのとは違って、まだ一歩目を踏み出せないでいる状態が長続きします。

今回のお題は、実行をためらって始めから一歩も踏み出さずに尻込みすることではなくて、一歩を踏み出してはみたが、二歩目で足踏みすることと思います。

人は生きて行くうえでは、大小さまざまな岐路に立たされることが多くあります。強いて申せば、この二の足を踏むを上手にこなせて、どんどんよい方向に進む先に目がよく効く利口者か、二の足で後ろも前にも動けずにただ膠着して時とか金を無駄にしてします者との差は計り知れない大きな差となります。

しかし、一歩を踏み出したところで目を研ぎ澄ませて、二歩目で先を改めて見据えることが出来たなら、これまた凄い洞察力の持ち主といえますね。

書き出しのように私の短所は、動きにくい割には、動き出すと脇目を振り向かずに一直線になってしまいます。そうしますと私の場合は常時二の足を踏むことを常として物事を運んだ方がいいということになります。

人生に於きましては、二の足を踏むことを術として、いわゆる石橋を叩いて渡るのも良いのかもですね。つまり、二の足を踏むとは何かをしたいと思う強い気持ちと、それをやめようとする気持ちとの葛藤を表す言葉として、優柔不断ではなく慎重を期する言葉として捉えるのも良いかも知れません。

それにしましても、何事にも二の足を踏んで、ためらいどおしでは、他からしてみれば信用を失墜しかねることにも繋がりかねません。あまりにも二の足を踏みすぎないようにしたいところです。結構難しい諺ですね。

 


 第502話 鴨の水掻き

令和 3 年 5 月 1


鴨の水掻き

時は5月となりまして、水面に目が誘われるよき季節となりました。優雅に水面で舞う鴨の姿はいいもんですね。それにいたしましても、そもそも鴨はと申しますと渡り鳥であったと思っていましたけれど、どうなのか考えてみましたら、極寒のシベリアから飛来して春を待たずして北の国へと返るマガモがそ

れにあたります。

他に春になるとテレビ画面でお馴染みの、カルガモのお引越しですね。ヨチヨチ歩きの孵化したばかりの超可愛い子鴨が親鳥を追って道路を横切って歩く姿を見れば、心を洗われる思いがします。

鴨は基本的に渡り鳥ですが、カルガモだけは一年中日本に生息しています。一口に鴨と申しましても、幾種類の仲間がいるようです。このように渡り鳥として厳しい生息に堪えたり、カルガモの様に愛らしく実直に子育てをする姿を見て、お題のように直向きなモチ−フとされているのですね。

さて、お題の 鴨の水掻きですが、鴨たちは気楽に浮いているように思われますが、水面下では休むことなく足の水かきを動かしています。そこから表面では何事もないように見えても、人には見えないところで苦労をしている例えとされています。

飼い犬であっても空腹を満たしたり、生きて行くにはそれこそ人知れず飼い主に忖度の限りを尽くして生きているのです。また、飼い猫も同じです。

何故に鴨が人知れず苦労をしている鳥獣として持ち上げられたのかは定かではありませんが、体の重心が後方に有り、あの愛らしい身の振りから人の目にとまったのかも知れませんね。

 


 第501話 心に笠着て暮らせ

令和 3 年 4 月 15


心に笠着て暮らせ

ひもじさと 寒さと 恋 をくらぶれば 恥ずかしながら ひもじさが 勝つ。 という諺があります。時代や場所によって多少の言い回しが変わるかも知れませんが、欲を比べているものであります。

ひもじさとは、腹がすいて食べ物が欲しいことです。寒さとは気温の低い中で、着るものの無い状態です。恋とは性欲のことです。

人間、極度に貧した折には、飢えが一番身に沁みるとされています。まぁここまで行き着かなくとも人というものは日常茶飯事においてあらゆる欲との戦いのなかで生きていると言えます。

今回のお題はその絶えぬ欲を一時でも忘れさす術を説いたものです。

上見れば 星 星 星 とほしばかり、笠着てくらせ 人の世の中 、これを字を変えて見ますと、上見れば 欲し 欲し 欲し ばかり 笠(傘)着て暮らせ 人の世の中となります。

しかし、この諺は私自身にとって最も手厳しい戒めであります。今はちょっと住む地も離れて疎縁となっていますが、彼は今で言うブランド物で身を包むのが趣味でして、もう50年ほど前でもファッション雑誌を見ては給料を全部服装につぎ込んでいました。男前やし、スタイルがよく見栄えするのです。

一方私は申しますとスタイルにはまるっきし恵まれず、仮に高価な服を買っても見栄えせず、寒さと暑さを凌げる服装で満足でした。がしかし私のホ−ムペ−ジをご覧いただけばお分かりいただけますが、いわゆる趣味と言われるものに何でもすぐに手を出しまして、趣味の道具についてはすぐに上をみてしまい

、欲しいと頭をかすめますと、もう心棒がたまりません。何度笠着て暮らせと自身に言い聞かせても、どうにもならなかった思い出は数えきれないほどあります。

先述の友とは、思い立ったら自制の効かない性格の傷を舐めあって、よき友として生きてきましたが、その友も病に勝てずに遠い地で静かに暮らしています。

私も今は後期高齢者の歳となりまして、微かに星が見える場合もありますが、破れ傘でも被り、上を見えないように自制して、己の財布の底に気を使いながらボチボチとやっていきます。

 


 第500話 待てば海路の日和あり

令和 3 年 4 月 1


待てば海路の日和あり

今年はいつになく、春の訪れが早かったように思われました。その一つとしまして桜の開花が平年に比べてみましても、1週間から10日間は前倒しとなりました。

昔から春の嵐という天候もありますが、長い冬の荒天からようやく春の気配を身で感じながら穏やかな海を一本柱の船が沖に向かって進んで行く光景を心の中に描きながら、今回のお題を考えて参りたいと思います。

船が港を離れて出て行くのには、凡そにも想像が付かないほどにその理由があります。軍事や探検・調査のための一部を除いて、紀伊国屋文左衛門のみかん船や、その時代の松前船の頃で気象衛星なぞ無縁の中で、船頭の感と経験によって海運が委ねられていました。

そのような時代に、より確実に積み荷を安全に荷主の希望どうりに運ぶのは至難の業であります。その中でも目的港に着く日取りから逆算して出航の日取りを目論むのが最重要となります。

その大事な出航を指した諺とばかり思っていましたが、 待てば海路の日和あり は、元の由来は出航とは無関係であったようです。

元々の発祥は、待てば甘露の日和あり に由来していて、中国の伝説に登場する甘露とは、めでたい前兆として天から降る甘い露であり、つまりそれは恵みの雨であった。いくら日照りが続いても辛抱強く待てば必ず雨が降ってきて、大地を潤し恵みを与えると信じられていたということからこの諺が生まれたと言われています。

それがいつの間にか我が国では、甘露が海路といれかわりまして、海が荒れていて航海に出る事ができなくても、待っていれば必ず航海に適した天候が訪れるという事で使われるようになったようであります。

また時代と共に航海のみならず、どのような社会に於きましても、時としてどんなに逆境の中にあっても、じっと待っていれば必ず好機はやって来るという意味で使われるようになりました。

調子のよくないときへたに動くと運を逃す恐れがあるので、じっと待つことの大事さを知ればいつか必ず好機が訪れるとの教えとなりました。

待てば海路の日和ありは、逆境の間は来たるべき好機を逃さないように、しっかりと好機到来となった折には波乘る準備をしておき、常に最大限の努力をしておく事が必要な事柄だという教訓として、決してただのんびりひを過ごせばよいということでないことを悟る必要があります。

 


 第499話 火中の栗を拾う

令和 3 年 3 月 15


火中の栗を拾う

私は、数々の諺を思い出したり、又はものの本を読んで探してみては、お題として使わせていただいております。

しかし、 一つの諺の持つ意図するところを自分は思い違いをしているとか、自分だけではなく多くの人がそうであったりすることが今まで、沢山ありました。

それは時代背景が変化したためのものや、語呂からくる全体的な印象から逆の方向へと変化したものもあります。

今回のお題におきましても、古くは十七世紀のフランスの詩人が、イソップ物語を基にした寓話からで、ずるい猿におだてられた猫が、囲炉の中で焼けている栗を拾ったが、栗は猿に食べられてしまい、猫はやけどをしただけだったという話から生まれたフランスの諺です。

それが、我が国では、何故か目前の難儀を皆さんや組織の為にあえて犠牲になって人を助けるという美しい意味になってしまったようであります。 しかし元はと言えばこの諺には、だまされてその上おだてられて他人の手先として危険な仕事に使われたという意味が含まれていたのです。

確かに大なり小なり私が生きて来たサラリ−マン生活の中にも思い出される節は存在しました。おだてられるとか、騙されるという要素は全く無くて、その反面に時には自己を犠牲的に奮い立たせて難局打破の為の役を引き受けることがありました。

縁故や学歴という後ろ盾の無い者が、活路を見出す数少ない場が、火中の栗拾いであったことは否定できません。今の世では、リスク、コンプライエンス、ハラスメント etc が巾を効かせて火中の栗を拾うことなぞはあり得ない社会となっていると推測されます。

しかしながら、日本社会を隅々まで見渡せば、まだまだ日本式である火中の栗拾いも所々方々で展開されているにちがいありません。

時として、現状を打破するには誰もが背を向ける仕事に着手するしか他に方法が無いという場面に置かれたら、 経験からくる自信だけで突っ走るのではなく、よく自身で精査した上で 勇気をもって火中の栗を拾えば難関を突破し、自分のよき将来に結び着く好機となることと思います。

 


 第498話 早牛も淀

令和 3 年 3 月 1


早牛も淀 遅牛も淀

今でもそうでありますが、私は子供の頃から兎に角、誰よりも手が遅いほうであった。ついでに言うまでもありませんが、足も遅かったです。

先日も、池田市の方でダイポ−ルアンテナに挿入する短縮コイルの製作講習会がありまして参加して参りました。ある程度の部材は主催者の方で用意をしてくれていましたので、助かりましたが、それでも講師が進める作業に手が付いて行けずに、講師の説明とどんどん離れてしまい、余計に完成するまでの

時間が掛かることになりました。

これは手が遅いのが一番の原因ですが、一つ一つの作業工程に於いても理解して納得ずくで進めて行きたいと思うことが輪をかけてとろくさくなるのであります。結局11人の受講者の中で短縮コイルの希望周波数に合致して、完成した者の中では、ブ−ビ−賞となりました。

例えば、同じ荷物で同じ距離を行くような今回の製作講習会に於きましても、早く完成する者と、遅なる者ができてきますが、今回のお題のごとく、仕事をする牛にはその働く条件は千差万別でありまが、当然牛の能力にも差があります。

従いまして、牛使いから見た自分の良き相棒の牛に想いを込めて、どうせ最後にいきつくのは、京都の淀に着くのだということで、早い遅いの差はあっても、結果は同じだからあわてることはないという牛に対する優しい心遣いを込めて生まれた諺であろうと思います。

淀とは 京都市伏見区にある地名で、集荷場として栄えた場所であり、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であった。また、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった。

 


 第497話 生兵法は

令和 3 年 2 月 15


生兵法は大怪我のもと (なまびょうほうはおおけがのもと)

今回のお題は、知識や技術を生かじりで十分身につけないままでいて、それを頼りに事を起こすと、とんでもない失敗をすることになるという戒めの言葉ですね。

いいかげんな知識や心得を頼りにして、無鉄砲に突き進んだりすれば、とんでもない災難に見舞われることがあるという例えであり、浅はかな知恵や、うろ覚えの技術をもとにして、物事を処理したりするものではないということであります。

このお題の読み方は、兵法 だけなら「へいほう」といいますが、生が付いたら「なまひ゛ょうほう] と読みます。もとは 武術や特に剣術のことから使わられたように思います。

また、生 (なま) は完全ではないとか、十分ではない未熟な様を表しています。つまり 「生兵法」 とは、剣術に多少の心得はあるけれども、まだ未熟であり十分といえるほどの腕ではない ということになります。

生半可なレベルの武術でまともに勝負に挑んでいくと、かえって危険で、大怪我をすることになるというわけです。 そこから武術に限らずいろいろな技術が必要なことや、さらには豊富な知識が必要なことにまで及んで、中途半端なレベルでものごとにあたってはいけない という戒めの諺として言われるようにな

りました。

まあ、この諺はそれはそれでいいのですが、戒めがあまり強すぎると、慎重になりすぎて自分の実力以上のことに挑戦するとか、冒険してみるということがなくなる心配もある訳で、 それもちょっと寂しいですね。

よって、命を落とすほどの危険でなければ、あるいは周りの人にまで迷惑が及ぶようなことでなければ、生兵法を承知のうえで挑んでみる勇気も、必要かと考えられます。

確かにいまの世の中には、ほんの一部を除けば、生兵法は大怪我のもと、とは逆に、知識や技術は身に余るほど付いてはあるものの、尻込みが先になり持てる能力を活かしきれない現状が多々あるように思えてなりません。

 


 第496話 歳寒三友

令和 3 年 2 月 1


歳寒三友(さいかんのさんゆう)

この歳寒三友という言葉は、奈良時代に中国から伝わったらしい。 論語からの言葉で、中国では好まれる画題のひとつであります。歳寒は寒い季節のことで、三友は松・竹・梅を指します。

松は常緑樹であり、雪を被りながらも緑を保つ冬の松は、周囲の白との対比が美しいですね。また老松なども長寿の象徴でもあります。竹もまた常緑であり、まっすぐに天へと伸び、しなやかでたやすく折れはしません。竹を割ったような、すかっとした性格と例えられるように、誰にも好まれる性格ですね。

梅は冬の最中に、他にさきがけて咲き、早春に芳香を漂わします。梅一輪の暖かさとうたわれて、寒い中ても春の訪れを誘う、その慎ましいあでやかさは古来より広く愛されているところです。

これら松・竹・梅は、冬のさなかにも緑を保ったり花を咲かせたりすることから、中国で「歳寒三友」と呼ばれるようになった。現在では我が国では目出度いことの呼称として松竹梅を使われますが、同じ意味の歳寒三友のほうが言葉の成立としては早かったということになります。松竹梅が吉祥の象徴とされは

じめたのは江戸時代からだといわれている。

また、歳寒には寒い季節と併せて、どんなに苦しい事態に陥っても、決して節操を変えずに、信念を貫き通すとの意味もあります。歳寒と三友の四文字からなる元の認識と、日本に伝わったとされる奈良時代から江戸時代以降の長き間に松竹梅が主んじられてめでたいことの象徴と考えられており、本来の中

国での想いとは幾分異なっていると思われます。

大変難しいお題ではありますが、素直に極寒の季節であっても、またどんなに苦しい時にあっても、緑の色を変えることない常緑樹の如く、信念を貫きとおすことの教えとして捉えて、今月も過ごしていきたい。

 


 第495話 鳩に三枝の礼あり

令和 3 年 1 月 15


鳩に三枝の礼あり烏に反哺の孝あり

早いもので、正月が過ぎてはや月の半ばとなりました。

今冬は暖冬との長期予報で聞いていましたが豈図らんんや記録的な寒波の到来で寒い日が続いています。

その寒い日でも、 鳩や烏は人間の暮らす場所にとても近いところで元気一杯に生息しています。今回のお題になった鳥たちは人には身近な鳥であり、馴染み深いその鳥を使うことにより、親孝行の身近さを伝えやすいと考えられたのではないかと思います。

このように、受けた恩は返さなければならないと誰でも思うものではあるが、これがなかなか実行することは極めて難しいものであります。思いとは裏腹に「孝行したい時には親は無し」のとおり、親孝行の難しさは、孝行する時期とその内容を先ず考えてしまい、その実行に移ることが出来ないのではないかと考えられます。

多くの者は、親への恩返しを実行する年になってきたと思いつつも、さて何をしたら喜ぶのかと思いを巡らしてばかりで時間ばかり過ぎてしまうのです。

余談ではありますが、親と子が一人の場合は何の思案も有りませんが、普通には二人以上の子がいてそれぞれに付く者が付けば、親孝行と言えども、歳を重ねてからの場合は鳩や烏のようには事が運ばないことが多々起こりえます。

人生では、たかが親孝行と言えども、されどこれほど難しい課題は、そうあるものではありません。したがいまして決して特別な事と捉えずに、裃を脱ぎ捨てて平常心の中で鳩や烏のように、さらっとやってのける事が大事であります。

親孝行とは、何も難しいことをする必要はありません。思い立ったその時に自分なりに出来ることをきっちりとやることが、一番の親孝行ではないでしょうか。


 第494話 牛に引かれて善光寺

令和 3 年 1 月 1


---------新年 あけまして おめでとうございます-----------
-----本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします------


牛に引かれて善光寺

「牛に引かれて善光寺参り」は、実際に長野県にある善光寺にまつわる逸話を由来とした諺です。

逸話の内容はと申しますと、むかし信濃の善光寺の近くにすんでいた老婆の所に一頭の牛が現れて、その牛がさらしておいた布を角にひっかけて逃げ出しました。老婆がその牛を追いかけて行くと、牛は善光寺に駆け込みました。老婆は牛に導かれるままにたどり着いたそこが霊場であることを初めて知りま

した。このことから老婆は、以後神仏に対して信心深い人間へと変わり、それからはたびたびお参りして後世を願ったということであります。

今ではこの諺は、人に連れられて思いがけない所に行くこととか、ほかのことで誘われて知らないうちに良き方向へと導かれる事の例えとして使われているようですね。

しかし、本来は逸話の老婆の様に神仏に信仰心を心に抱く導びきであると思います。

さて、牛についてでありますが、今でこそ我が家では犬と猫を飼っていますが、私が小学校に通っていた頃には主に農耕で働くための牛を飼っていました。一時飼っていない期間もありましたが最終的には私が19歳になるまで一緒に暮らしておりました。牛を飼わなくなったのは、その頃にはようやく農耕には

牛に代わって発動機が載った耕運機が使われるようになったからでした。近所では数件の酪農家があり乳牛を飼育されていましたが、この時期には農耕の為の野牛は一斉に姿を消すことになりました。

もともと我が家では、祖父が牛を可愛がっていました。その祖父の影響を受けて私も牛が好きとなりました。人には従順で、あの真っ黒で丸い大きな目は何とも愛らしいのであります。私は夏の間はよく田圃の畔で草刈りをして、籠一杯の草を持ち帰ります。それを見て足ふみをして喜ぶ牛に籠の草を与え続け

たものでした。

昔は家族が揃って食事を摂っていましたが、食後に「あぁ美味かった 牛負けた」 と口癖に言うと祖父が大変怒り、「あぁ馬勝った 牛負けた」となりまして「牛は馬に負けることは何もない」と言い返しました。それを面白がって、また次の日にも同じことを繰り返すのです。こよなく牛を愛した祖父には耳障りな言

葉であったのです。

牛は古い昔から人の良き働きてとして重宝されてきました。今年は丑年、幸多い良い年でありますようにご祈念申し上げます。

 



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