ちょっと小話コーナー Short Story保存拾五号館
ご感想やご意見は、掲示板で待っています。

第352話 風は吹けども 第353話 大は小を兼ねる 第354話 脚光を浴びる
第355話 いみじくも 第356話 ム矢三くタ 第357話 黒田博樹投手
第358話 沈魚落雁閉月羞花 第359話 浮世渡らば 第360話 メーデー
第361話 朝の一時は 第362話 商いは草の種 第363話 ルび
第364話 若木の下で 第365話 鷹の祭典 第366話 今日の一針
第367話 地獄の釜の蓋が開く 第368話 歳月人を待たず 第369話 弓と弦 
第370話 杜撰(ずさん) 第371話 管を以て 第372話 物言えば 
第373話 ホークスを想うVer 7 第374話 最上は幸福の敵  第375話 子ほど喜ばせ難い
           
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 第375話 子ほど喜ばせ難い 

平成27年12月13日


子ほど喜ばせ難いものはなく親ほど喜ばせ易いものはない

古くは事の真否とか、事実はどうかは分かりませんが、安土桃山時代の大盗賊であった石川五右衛門が捕まって京都三条河原で釜茹での刑に処せられた折りに、初めは自分の子を高く差し上げていたけれど、いよいよ釜の湯が熱湯と化した時に子を足の下に敷いたといわれている。

我が国では、今月になってから、生後3ヶ月の赤ちゃんが覚醒剤を投与(または使用)して殺害されたとした事件が報道されていました。 また、イタリアでは昨年1月に遺体で発見された 3歳児について、麻薬密売人の祖父に「弾よけ」として連れ回された揚げ句に、抗争に巻き込まれて殺されたとの 事件が最近になって報道されていました。

今回のお題は社会に存在する各家庭においては、多少の暮らしの向きの差がある中では必ずしも、親と子の関係が諺どうりではないことも想定されますが、書き出しの2〜3の例のような劣悪なものではあってはならず、例は普通にはあり得ない人間社会の倫理を大きく遺脱したものであります。

親と子の間柄には、子が成人するまでは親の手厚い扶養のもとで育てあげられるのが人の道でありまして、その中での親と子の関係を殊更もうしますとすれば、子は親の愛に慣れきっているから、あらためて親からの愛などは感じないものであり、それを感じるのは親を亡くしてからか、自分が子を持ってからであります。

だから親が子を喜ばせようとするのはなかなか容易でなく、たいていの事では不足を言われるだけとなります。しかし、親は子を愛するだけで満足し、子があるだけでも慰めとしていますので、子から喜ばせてもらうことなどは期待していないのではないでしょうね。

したがいまして子が親を喜ばせようとすれば、例えばテストで100点を取るとか、運動会で1等になれば十分であります。まことに容易なことです。

子が成人して、所帯をもって順番には親が死を迎えるまでの親と子の間を書き出せば、それこそ長い長いお話になりますので、とりあえず今回のお題として、子が成人するまでの間のお話を思い浮かべてみました。



 第374話 最上は幸福の敵 

平成27年12月1日


たいへん荘厳なお題となりました。しかしこれは人の誰しもの思いや欲情であって、心の奥深くでは常に抱いていることであります。より多くの幸福、より至高の生活を願うがゆえに、その思いとは反対に現在の幸福に気付くことなくかえって万事に不満をもち、自らが幸福というものを知らずに過ごします。

最上は幸福の敵とは、良い上にもよかれ、多い上にも多かれと願うのは人情の常だが、そのためにいつも不満にかられて、当然味わうことのできる現在の幸福をも幸福と思わなくなることになりかねません

類似する戒めの言葉として、「上見れば及ばぬことの多かりき笠着て暮らせ己が心に」 というのがあります。そしてこれを易しくアレンジしたのが 「上見れば 星(欲し) 星(欲し) 星(欲し) と星(欲し)ばかり、笠着て暮らせ人の世の中」ではないでしようか。

ものを欲しがる心のお話しですが、 先のプレミアム12で、日本は韓国と準決勝を戦いました。結果は皆さんの知るところでありますが、野球観戦が好きな私が、高校野球であれプロ野球であれ試合の途中で何点リ−ドをすれば幸せ気分で観戦できるかであります。

例えばですが、その戦況が 4−0 とか 5−0  と 10-6 では点差は同じでも、状況が異なります。お話とすればせいぜい相手が1点か2点の範囲でしか得点が出来ない試合では、普通には満塁ホ−ムランで得られる点数の 4点差 が一先ずの目安となります。

先日の準決勝では、8回の裏を終わって 3点 差がありました。しかし、野球というものの面白さには、チャンスの後にピンチあり、またその逆で、ピンチの後にチャンスが必ずと言ってもいいぐらいに巡ってきます。
試合の中盤以降に日本は得点のチャンスをことごとく逃しました。テレビの前で3点のリ−ドはあるけれど、また回も終盤にさしかかってはいるけれども、3点の上にも1点を、さらにまたもう1点をと欲張って味方の得点を願いました。
しかし、この試合は相手が最期攻撃となる9回表に逆転して、その裏を守りきって勝利をしました。こうしてみれば、常により上、よりよかれと貪欲に1点づつを加点できる折があるならば、より多く得点しておくのが単に欲張りだけではなく、人生に当てはめてみても将来での安泰を見据えた人の条理でもあると考えられるのです。

まあ、よい上にもよかれそして多い上にも多かれと願うのは人情の常であって、そのためにいつも不満にかられて、当然味わうことのできる現在の幸福をも幸福と思うことなく、更なる進歩を目指さなければならない事象も人の周りにはごまんとある。

 


 第373話 ホークスを想うVer 7 

平成27年11月15日


 日本一連覇

日本一連覇とは、西鉄(西武)、阪急、巨人、広島が成し遂げてはいますが、ホ−クスには無縁の「日本一連覇」という言葉でした。それだけに10月29日の工藤監督の胴上げには、一入胸にジ−ンとくる喜びがありました。

今回のホ−クスの日本一の連覇の前はといいますと、平成3年からの西武が3連覇した時まで遡のぼりますので、それ以来21年間に渡って連覇はなかったのです。 このことは、12球団の実力が拮抗したことを物語っていて野球ファンから見れば良い事とも考えられますが、改めて凄い事をホ−クスはやってのけたのだと嬉しく思います。

圧倒的な強さでリーグ優勝して、CSを制し、2年連続の日本一を駆け上がったのですが、私としましては今シ−ズンの見通しとして、春のシ−ズンインから昨シ−ズンの余韻を漂わせながら、その上に大型補強を行ったバファロ−ズが快進撃するのではないだろうかという不安と、一方ホ−クスはと申しますと、昨シ−ズンから見れば監督が秋山監督から工藤新監督になった以外に目立った補強もなく、ただじっくりと持てる力の研ぎ澄ましに傾注して、目標を明確に日本一連覇としてやってきただけでありました。

振り返れば今シ−ズンはそれが叶ったということになる。ただ夏まで1軍マウンドに揚げることなく、ここ数年は9月になると失速するホ−クスの弱点を見据えて、そして CS と日本シリ−ズに備えたバンデンハ−ク投手の起用は、現場かフロントかは知ることは出来ませんが見事であった。

工藤監督は、かつて投手として昭和61年、62年と 2年連続で MVP に輝いている。その得難い経験からくる知恵を駆使して選手には、「普段通り、それができるかどうか。」と独特の緊張感からくる心と体の疲労を知るからこそ、特別なことは求めなかったという。

初戦の10月24日に、テレビをつけるなりのビッグニュースである、主将の内川選手の欠場は、ホークス有利の我が胸算用も一気に五分五分と頭の血が引くような思いをしました。CS であんなに大活躍して MVP に輝き誰しもその勢いを日本シリーズに持ちこして有利な展開を期待していました。

結果的には、昨年の4番バッタ− イ・デホが今日本シリ−ズで MVP に輝いたとおりシリ−ズ 8打点もあげました。あえていえば不振の 松田 柳田 を明石を始めとして、出てくる選手が見事な活躍で強いホ−クスを見せつけてくれました。
投手陣といえば、武田 バンデンハ−ク 摂津 スタンリッジ とそれぞれが重責をよくはたしました。先発がよければ中継ぎも抑えも完璧でした。
神宮球場での第一戦に、ヤクルト山田の大活躍で大敗したけれども、次の日には摂津投手の見事な投球術で接戦を勝利した日は、さすがエ−スの摂津投手で強いホークスを取り戻してくれました。

日本シリ−ズが終了した後にある新聞記事に次のような記事がありました。「春のシ−ズン前から日本一を目指したチ−ムと、リ−グ優勝のために 143試合だけを見据えたチ−ム。その差は大きい」と書かれていた。

私はこの春にどこのチ−ムにも存在するヘッドコ−チの名前がホ−クスには何時になっても新聞などに出ることなくシ−ズンに入ったことに心配をしていました。以前にはホ−クスには監督経験のある大石ヘッドや、ホ−クスの生え抜き森脇氏がその重責を務めてきました。
しかし、工藤監督の野球に対する取組み手腕は、かつて城島健司が捕手として大成した師匠こそ、当時の工藤投手であったことや、その指導方法の厳しさからして、今シ−ズンはヘットコ−チを持つことなく己の思うがごとくの野球に徹するつもりやなと思ったのが、開幕から2か月ほど過ぎた頃に投手起用方法に現れていました。さすが投手出身監督だと思わされました。
確かにホ−クスには、王球団会長がいて、大きな流れの変わることの無い運営は維持されている中で、秋山前監督から日本一チ−ムを引き継いだ工藤監督は、「えらいこっちゃ どない維持していこうか」と考えるか「俺ならこうやる」と不変のビジョンを抱いて堂々と成し遂げるかの道があることだが、工藤監督はどちらかと言わずとも分かることですね。

私が知る強いホ−クスは、小学校の低学年時代でパリ−グでは毎年のように優勝していたが、日本シリーズとなればいつも一歩届かずに巨人の後塵を浴びせられていました。夏期には強く、リ−グ優勝はするのに秋の日本シリ−ズでは、がっくり肩を下げなければならなりませんでした。しかし、パリ−グで競いあうライバルである、西鉄はいとも簡単に巨人に勝つ。まぁそんな時代の昭和34年の日本シリ−ズに、杉浦忠投手の4連投で勝利して、涙の御堂筋パレ−ドとなったのです。このことは当コ−ナ−でも再三にわたって述べていますのでこれくらいにします。

最後に、昨年日本一に輝いて前述のように今年は日本一連覇に向けての取り組みで、スタッフ 選手 に大きな異動は監督以外にはなかった。しかし、今年は今日現在でも、吉井コ−チの不透明な退団、スタンリッジの放出 ???  イ・デホの退団 それに加えて 松田の行方 が取り沙汰されている。
和田投手のカムバックは、大ファンとして嬉しく思います。
しかし、わずか4年前に日本一になりながら不透明な選手放出で後2年はペナントから遠ざかったことと、昨年は選手を維持したことを対比してみれば、、ファンの気持ちとすれば保守的にならざるを得ません。


 第372話 物言えば 

平成27年11月1日


「物言えば 唇寒し秋の風」 

ほかに芭蕉の句として、奥の細道から「夏草や」「日の光」「最上川」「佐渡」等の有名なものが多くあります。私は仕事をリタイアしたのを期に毎年夏には北海道へと犬とともにでかけていましたが、何時も車を利用していましたので、その道すがら東北・北陸では大きな石に刻まれた芭蕉の句を目にしたものであります。もっとも小生は俳句など勉強をしたことはなく、本を読むという殊勝なこころがけもありませんでした。しかし今回のお題としましたこの句だけはいつも心の一等場所に置きながら戒めとしてきました。

いかなる場合にあっても、一度自分の口から発せられた言葉は、後で回収することが出来ません。よって早い時は「唇の乾かないうちに」後悔するものがありますし、時が経って後に人伝えで自分の耳に入り遣る瀬無い思いをしたことが一度や二度ではありません。また、同じような意味を持つ「覆水盆に返らず」というのもありますが、これは口がら発せられる言語だけではなく、広くその行為なども含まれています。

揉め事を起こして腹立ちまぎれに相手の欠点ばかりを吹聴して攻撃したけれども、挙句の果てに自分までもが回り回って惨めな気持ちになったことはありませんか。物言えば唇寒し秋の風というように、あの時は言ってすっきりしたが、後になって残ったのは嫌な気持ちだけだったともなりかねません。

誰にでも、人の欠点を批判したり自分の長所を自慢したりした後は、必ず言わなきゃよかったという思いにとらわれるものであります。また、そうしたことによって余計な手間や暇を費やしたり、金銭的な出費に繋がることも少なくありません。

ものの本によれば、「物言えば 唇寒し秋の風」は芭蕉の座右の銘にある句で、この句の前には「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」とあり、 略して「物言えば唇寒し」となっているらしい。 口を開くと秋の冷たい風が唇に触れて、寒々とした気分になるとからであり、、人の悪口を言えば、なんとなく後味の悪い思いをするということと、また余計なことを言えば災いを招くというたとえで、ただでさえ冷たく感じる秋の風を唇で捉えた、最高の傑作です。

口はわざわいの門、出来るだけ口は慎しまなければなりません。このことは百も承知しているけれども、この語を守ることの難しさもまた格別である。


 第371話 管を以て 

平成27年10月15日


あまり難しくない話として、年の頃なら12歳から15歳頃には誰でも「管を以て天を窺う」体験をいたします。稀には、その様な事には縁遠しく皆さんに遅れること10年後にして巡ってくる方もあるかもしれません。

「淡い初恋消えた日は、雨がしとしと降っていた 傘にかくれて桟橋で 一人見つめて泣いていた ・・・・」 そう初恋というやつである。

よく思い出して欲しい、初恋の相手なんて何に魅かれてそうなったのかと。もちろん一目惚れも含む容姿がまず一番であるとは思いますが、他にその相手の家の荷風がどうだとか、親の地位や人間性とか資産はどうか何てイメージしたでしょうか。そりゃ世の中には変わり者も、スーパー賢者も居て一筋縄では到底論ずることには無理とは承知でお話を展開しますと。

人間は、自分の知っていることだけ、または自分が置かれている生活空間が世の中のすべてだと思い込みやすい。つまり自分の知識の狭いことには気が付くこともなく、その狭い知識をもとにして、将来を左右するような大きな問題でも、自己を中心とした判断を以て一心に突き進むものである。

教壇に立つ、年の離れた男性の、その凛々しい横顔だけにすっかり惚れ込んで、周囲の同級生の男性生徒には、目もくれずに一心に「管をもって天を窺う」がごとく先生を想い続けて、先述の歌の文句の結末を迎えるのである。

しかし、この淡い初恋は極一部の者を除いて、普通には通らなければならない人生の関所である。もしも
この関所を通過する折りに既に大人の域に入って、酸いも甘いも嗅ぎ分けている者には、もはや純粋な初恋とは一線を画した不順な初恋もどきとしなければなりません。

この様に人は成長の過程において「 管を以て天を窺う」
むなしさを学び、極端にはずるさとか、良く言えば賢さを身につけていきます。

一方、つい先日には、栄誉あるノーベル賞を我が国からお二方が受賞されました。今回のお題であります
「 管を以て天を窺う」は、知識・見識の見つめ方が誠にもって狭くて、どちらかと言えばネガティブな方向での位置づけをされていると考えますが、ノーベル賞に輝かれた方々の受賞に至った経歴の紹介を見れば、それこそ一心不乱、「 管を以て天を窺う」ごとく生きて来られたものと推測されます。

でも、本当はノーベル賞に輝かれた方々が、我々の日々生活圏に居られたならば、たぶん変人とは言わなくとも多分世間には馴染み難いと思うし、また一般世間で優れている人は、せいぜい町会長さん止まりでしようね。

イチローなんて、細い細い管で以て天を窺って、やって来た優等生です。最近1億総・・・・・とか叫ばれていますが、1億本の管を用意して、マイナンバーに付けて全国民に配布すれば、いまだ誰も成し得ていない宇宙の端を発見するような偉い人が、近い将来に我が国から必ず出現することでしょう。
 


 第370話 杜撰(ずさん) 

平成27年10月1日


 「杜撰」という語の意味は、物事の仕方がぞんざいで、手落ちが多いことと出ており、他にはいい加減なこと、というのもありました。

てっきりこの語はまだまだ新しくて、イメージとしては大正か昭和の初期ぐらいに新聞が世に多く出回り始める時代に、記者達がまだまだ厳格な時勢にあって、やり方や内容がいい加減なことが原因で起こった事象や事件を扱う文言として、ペンを走らさせたものと思っていました。

一方、現在の三面記事でもよく見かける活字に「ずさんな・・」があります。・・には、管理、会計、人事などのいろいろなものが入ります。とくに官公署のスキャンダル記事には必ず大きめの活字で紙面を賑わします。

安物新聞社の官公署を攻撃する活字の決まりフレーズは、「多発したこの間の事務的ミスは、ずさんな・・事務が原因であることが浮き彫りとなつた。」 という具合に、ミス、ずさん、浮き彫り の三つをキーワードに記事を書けば、誰にでも社会部の記者は務まるように思えます。

しかし、杜撰の語源は古くものの本には、 「杜」は中国の詩人杜黙、「撰」は詩文をつくることでありますが、杜黙の詩は自由奔放で詩の規則に合わないものが多いため、杜黙の作を「杜撰」といい、転じて規則に合わないことをいうようになったと記されていました。

まあ、作る詩が規則に合わないために生まれたのが、「杜撰」であれば今の世であれば私がよく手にする「ことわざ辞典」なんかには何事にも型破りな世を反映して、次々に現れる新しい語を収録するために大変なことであろうと推測されます。

私としましては、杜撰という語に抗して生きてきたようにも思う人生ですが、残りの日々も相変わらずそうでありたいと思っています。


 第369話 弓と弦 

平成27年9月15日


弓と弦は、おのずからその働きは全く別のものでありますが、物事の例えとか諺で言われる場合は二つの物を比較して、一つは端から端までがまわり遠く、また一方はまっすぐなことをさして、
近道と遠回りとの違いのことを言われています。

誰でも普通には弦のようにまっすぐな近道を選ぶのが世の常であると考えます。

しかし、あらゆる生き様を見たら決してそうでもなく、往々にして目標に直接到達できないような問題や場合があって,間接的な遠回りのルートや手段を用いて目標に達することがあります。寧ろ人の生きる道では「弓」の方が多いのではないかとさえ思われます。

マウンド上の投手が
次の1球に 「直球」か、それとも「カーブ」を投じるかを、キャッチャーと息をあわせている。まあ多少の無理がありますが、まっすぐか、それとも曲げるかの岐路に立たされていろことには変わりがありません。

昔のイメージとすれば岐路に立った旅人が、
まっすぐな近道と曲がった回り道との進むべき先を思案しているのもありますが、今では車で旅する限りにはカーナビゲーションという便利な補助具が備わっていて、弓と弦を迷うことなく導いてくれます。

歳を重ねた今、私が今後において弓か弦を選択すべき大小いくつかの場面では、思考力の低下や持ち時間を考慮すれば、その多くは「弦」となりますが、いずれにしても「弓と弦」は、出発地点と行く末の到着地点は同じであることをよく肝に命じなければと思います。


 第368話 歳月人を待たず 

平成27年9月1日



この「歳月人を待たず」を、じっと目を閉じて瞑想してみれば、大きく分けて二つの時点があります。

まず一つ目は、人はそれぞれに己の人生でもここが勝負どころとフルパワーで頑張る時期にあり、それが寝食を忘れて何年も継続する場合もあれば、時間的にはほんの一瞬で決まってしまう人生もあるように思います。いずれにいたしましてもかかる人生の大事な折には、月日は人の都合に関係なく過ぎていくものであります。どうか今という時間を大切にして、仕事において、また学業やスポーツの分野等に於いて励げむようにと諭してくれるものであります。

あと一つは、まさに私の今の境地にあると考えます。いくら男性の平均寿命が延びたといえども、もう両手の指で数えたら何本かが余ってしまいます。何年か前に小型の飛行機に乗せてもらう機会を得て、片道数百キロメートルの空路を往復しましたが、その折り目に小さく目的空港が見えた時の瞬間が今でも脳裏に焼き付いています。横を向けばパイロット氏が忙しく、声を出しながら計器のチェックをしたり、コントロールと無線通信を行っていました。 この着陸手順こそ、一瞬の時間も止めることなく然るべき手筈を、余ることなく足ずことなく成し遂げなければなりません。

いよいよ私の人生も、おぼろげながらにも着陸地が見えてきて最終アプローチへと向かいつつあります。  あと1週間で満72歳となります。



 第367話 地獄の釜の蓋が開く 

平成27年8月15日


「地獄の釜の蓋が開く」

地獄の釜の蓋が開く、なんて言いますとかなり物騒な話かなと思われる方も居られるかも知れませんが、ちょっと昔なら皆が楽しみに、指折り数えてその日が来るのを待ちわびたものです。

その日とは、 正月と盆の16日でありまして、この両日には地獄でさえ、罪人を煮る釜の蓋を開けて休むということであったらしく、俗世界においても誰もが仕事を休むことが定着したようであります。

それで古くからこの日を「藪入り」と申しまして、使用人に休暇を与える習慣があり、奉公人が主家から休暇をもらって親もとなどに帰ったり、嫁が嫁ぎ先から生家に一時戻って、親のもとで手足を伸ばしてゆっくり過ごしたものでした。私の地元では、嫁は正月の1月5日ぐらいから、盆は8月16日くらいから、4〜5日間の里帰りするのが風習としてありました。現在は嫁も自らが自動車を運転して、毎日のように生家に戻ったりしていますから、もう改めて「藪入り」なんて必要がないのでしょうね。

よく似た話として、年の暮には役人が28日から休むのも、出先に出張っている者が、正月だけは一家団欒の時を過ごせるようにと、いわば粋な日本文化であります。

最近は、盆や正月といえば決まったように高速道路と新幹線の混雑状況がテレビや新聞で報じられます。この田舎への里帰り習慣は、やはり「藪入り」からくる一つの風習からきた日本文化であると思います。

20年程前に労働の週休2日制と、連鎖するように「ゆとり教育」との名のもとに、学校教育も週休2日となりました。しかし最近これが見直されて、土曜日も就学の趣と世がまわりはじめました。

やはり資源の乏しい我が国「日本」が、世界の中で生き抜くためには、勤勉の二文字以外にはありません。盆正月しか休みのない、古き良き日本文化に学ばなければならない時期が来たようです。


 第366話 今日の一針 

平成27年8月1日


「今日の一針明日の十針」

一年中でも、最も暑い時期を迎えまして、体感的にも疲れ易いし、またその疲れが取れにくいという今日、されど睡眠を十分にと考えて早寝したところで、返って寝付かれずに逆効果ともなりかねない、いたって難儀な時を迎えています。

季節がらの環境で体力的にも、どうしても疲れを貯め込むこの時節に何か少しでも楽に過ごせる手筈が無かろうかと考えてみました。

そこで今回のお題であります、「今日の一針明日の十針」につきましてですが、どうしょうもない環境はさておいて、自身の精神的ストレスを例え少しでも和らげてみようと考えました。

さて、今回のお題は今日一針縫えばすむものを、わずかな労を惜んだ為に明日にはほころびが大きく広がって十針も縫うことになるという意から、少しの労を惜しむと後でその何倍もの苦労することになるという教えであります。

とは言うものの、 本格的に暑さも盛りとなりまして、この時期には今日の内に成さねばならないことをついつい先送りして、易きに流れ先に冷えたビールに手を伸ばして、そのまま寝てしまうことがよくあります。

そうなれば、頭には切迫感とともに自己嫌悪だけが重くのしかかってくるものです。

まあ、人にはそれぞれ性格というものがありまして、どうせやらなければならない事は、出来るだけ早い目に済ませて、気分だけでも楽になりたい人と、期限が来なければやる気が起こらずに、切羽詰まればうまくつじつまを合わせる人がいますが。

総じてみれば、年中でも一番体力の消耗が激しいこの時期を過ごすには、精神的なストレスを自身の心がけ一つで軽減できる一つとして、「今日の一針」 こそ最良であります。


 第365話 鷹の祭典 

平成27年7月15日




鷹の祭典2015 in 大阪

7月9日、京セラドームに於いて超満員の35,000人を集めて、鷹の祭典2015 in 大阪の試合がありました。京セラドームではありますがホークスが開催権を得て行うもので、ホークスはベンチも一塁側となり、後攻です。
試合の結果は、東北楽天イーグルスに、4対1でホークスが快勝しました。

何と言っても目玉は、昨年から行われているこの祭典に集まったファンに、選手が試合で着ているユニホームのレプリカが入場者全員に配られることです。もっとも前売り券で予約をしていることと、当然ながらイーグルスファンには渡りません。
昨年は真っ赤に京セラドームが染まりましたが、今年は写真のとおり黄色一色となりました。

突然2〜3列後方から、まだまだ若い男の声で、「今宮、三振はホークスの中でお前だけやでーー」と声が掛った。この日には今宮遊撃手も少しだけ打撃が上向いてたが、それでもやっと2割に手が届いたとこで、いつも一割台に低迷していた。
このヤジを皮切りに誰かが続くかと期待しましたが、この夜はこの一発だけであった。
上の写真から雰囲気が伝わると思いますが、現在は皆が声を揃えて一体となって応援する。だから下手なヤジを飛ばすにも気後れをしてしまう。今宮からはこの夜も快音を聞くことがありませんでした。

まあ、その翌日の新聞記事にもありましたが、この日は勝利を得るために、全員が大きなものを(ホームラン)狙わずに、繋ぐ野球に徹したとのことでした。多くのファンもこの日ばかりは勝ってほしいと願っていたと思います。

試合後のイベントを盛り上げていたアナウンサーから最後の最後に、「今日の絶大なホークスへの熱い応援は、ここ大阪はホークスの発祥の地、その想いが伝わる大声援を感じられずにはいられなかった。有難うございました。」と〆た。

予期もしなかった言葉に、これまた熱い思いが、ホークスファンである嬉しさが、大きな拍手の中で増幅されていました。


 第364話 若木の下で 

平成27年7月1日


「若木の下で笠を脱げ」

どんな大樹に育つかわからない若木を、人間の青年に例えた言葉であり、
若者を侮ってはならないという戒めです。そこからまだ若い相手でも一人前の人物として敬意を表し、丁寧に笠を取って挨拶するようにとの意味である。

さて、若者のこととなりますと、さる6月19日に
選挙権年齢を「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が 公布されました。これは、昭和20年の終戦直後に、25歳以上からいままでの20歳以上となってから実に70年ぶりとのこであります。


新聞によれば、海外では、18歳以上が主流となっているらしい。選挙権年齢が判明している世界の191の国・地域の様子では、25歳が最高齢であり、最も低年齢は16歳というデーターがある。しかし、その内でも18歳という国・地域が今回の日本を加えれば、大半の168と圧倒的に多い。

しかし、それに至った経過には今から50数年前に、欧米では学生運動が盛んになり大学生を中心に政治参加を求める声が高まり選挙権年齢の引き下げが相次いだとのこと。また米国においては「ベトナム戦争に徴兵されるのに選挙権がないのは不当」とのことから、1971年に憲法改正で18歳になった。

こうして見れば、その多くは若者の声、要求が国を動かしている。今回の我が国の動きは、まあ数年前から論議が持ち上がってはいましたが、いつの間にか国会で決められたという感は否定できない。先述の18歳選挙権実施の168の国・地域の名前はとすれば、誰もが知る名たる国は全てが名を連ねています。

今回明らかにされているのは、選挙権の行使として、国政選挙、地方自治体の首長や議会の選挙、国民審査、地方議会の解散請求などがありますが、とりあえず18歳以上の未成年者であっても、選挙運動の際に買収などの重大な選挙違反があった場合には、少年法の特例として成人と同じ処罰をうける。当然かかる場合は、報道では顔入り実名ということになるのでしょうね。

今回の改正法には付則として、民法や少年法の適用年齢の引き下げについて、必要な法制上の措置を講ずるとの規定が盛り込まれたようですが、この年齢条項のある法律は実に計212本もあるとのことです。

それなりの若者の要求が背景にある18歳にくらぶれば、テレビか新聞で報じられて初めて認識する我が国の若者には情けなく思うし、どことなく年齢を引き下げる明確な理由がどうも見当たらない。

しかしながら、今回のお題といたしました諺も「笠を脱げ」からして、そう新しくもありませんし、先の大戦では、鹿児島・知覧の地から多くの10代の若者の命が散っていきました。

この平成27年の公職選挙法改正が、将来の我が国に多くの「若木」が栄えていることを、節に望みたい。


 第363話 ルび 

平成27年6月15日


微  徴  徽
ルび  王ちょう 糸き  とは、この難解な3文字を覚えるための語呂あわせのことであります。画数の多いよく似た字ですが、よく見れば字の一部が、左から「
ル・・微  王・・徴  糸・・徽」であることが分かります。

これを 「ルび 王ちょう 糸き」と覚えるのです。結構口調もよく、一度覚えたらまず一生忘れることは無いと思います。


蛇足ではありますが、「微」は、細かいとか、ほんの少しという意味を持ち、顕微鏡、微熱という場合や、微笑み(ほほえみ)とか、微温湯(ぬるまゆ)とかを表します。

「徴」は、とりたて、きざし、よびだすことの意味を持ち、
徴収は金銭などを取り立てること、徴候は物事の起こる前触れとして、景気回復の徴候(兆候)がみえるとかであり、徴兵は、かつて我が国にも軍隊があり、その兵隊を召し出されました。

「徽」は、
しるし、の意味を持ち、語源としては、 糸やひもを小さく結んでしるしとしたことから由来したらしく、 徽章は衣服、帽子などにつけて身分や資格などを表すものとして用いられています。  
 
思い出すのは、小学校の高学年になった頃ですが、理科で蝶々の羽根を見る勉強がありました。羽根は大きく、いわゆる虫眼鏡で十分観察ができるのですが、その羽根に付着した花弁の粒子から、蝶々がどこで遊んでいたのかを研究したのです。その実験の成否は全く記憶にありませんが、 そこで顕微鏡なる物を知ることになりました。その物凄さに陶酔をすると共に、自分も欲しいと思うようになりました。高価で普通の家庭では到底買えるようなものではないことも分かっていましたが、母親を通じて親父に打診してもらいました。今で言う「費用対効果」など思えば、一時の子供の思いつきで受け入れられる様な話ではありません。

親父から「けんびきょう」という字が書けるかと言われました。全然書くことが出来なかったが、その時に習った記憶としまして、何と難しい字があるものだなと思いました。高価なこともありましたが、不思議と顕微鏡という字が書けない自分がまだまだ欲しがるような資格もないと自然に受け入れる結果となりました。

その後、いつかはわかませんが、「ルび、王ちょう、糸き」という語呂合わせと出会いまして、これらの難解な文字とも親しくなりました。それ以来は √ の値や今ではすぐに口にはでない、Log や π はたまた日本史の年代のほか数えきれないほどある語呂合わせが勉学や社会で生きるうえで重宝しました。

かつては、自分の頭の中に勝手に作った語呂合わせの暗記データーが数々ありましたが、今では次々と忘却の一途をたどり、残りわずかになりました。
私といたしましては、「ルび、王ちょう、糸き」が頭から Delete されるのも、そう遠い日でないように思います。


 第362話 商いは草の種

平成27年6月1日


商売は、世界中に数え切れない多くの種類がある草の種のように、その数は尽きることがないという。また 商売は草の種でありまして、見方次第で新しい分野での活路がどんどん広がっていくとの意味があります。

二月末から三月頃に芽を出した多種の草も、一部の春物を除けば、この六月には一段と成長の時を迎えております。この六月は雑草退治に皆さんもいろいろと苦心惨憺されていることかと思います。私はここ10年くらい前に商品名が「ラウンドアップ」という除草剤と出会ってからは、専らその除草剤に世話になっています。とは言いましてもほんの家のぐるりだけなので、手作業ででも事足りるわけですが、ずぼらなもんで楽を知るとなかなか体を使ってのしんどい事には心が向きません。

それにいたしましても、雑草の生命力の逞しさには感心をいたします。その割には種を蒔いて大事に育てようと思う野菜などのひ弱いことは、これまた頭の痛いことでもあります。イチゴやえんどう豆は収穫時が過ぎましたが、スイカ等の夏物はこれからが肝心です。

今回のお題は、いきなり
農作物にと話がそれましたが、もとは 商いについての教えであります。商売と言えるかどうかは、いささか問題もありますが、いわゆる「振込詐欺」に類する関係者達は、この商いは草の種を忠実に守りながら生きているのでしようね。 その新手の創造たくましいことこの上なく、また実行するための組織作りや、社員養成も見事なものであると聞きます。踏まれても、引き抜かれても逞しく這い上がる命は、雑草そのものの生命力であります。 かような、大木がごとしの草と化したグループを年老いた人が一人で太刀打ちできる訳がありません。

もともと商いとは、秋になると農民の間で収穫物などを生活品と交換することを多く行われたことから「商い」へと変化していったらしく、現在では一般的には物を金銭で売買する様を指しています。ただし、物が必ずしも有形であると限らず、無形のサービスも含まれています。

がしかし、 物を与えず、決して満足なサービスを提供することもなく、世に言う詐欺行為を売るだけでは、草の中にも入れず、まして「商い」とは言い難い。


 第361話 朝の一時は

平成27年5月15日


「朝の一時は晩の二時に当る」

一時、二時は昔の時間のことで、一時は大体今の二時間に当たります。この語は朝なら二時間であがる仕事も、晩にすればその倍の四時間もかかるということで、仕事は朝の内にしっかりやれという教えであります。

このお題に連想するならば、百姓なら昼はいつまでも昼寝したり、ウダウダしながら、日が傾きそうな七つ時ぐらいになると、えらい勢いで仕事に励み、日も暮れて辺りが暗くなるまで田畑にいる人が、村には一人や二人は必ずいました。

会社勤めなら、昼はボケーと何を考えているのか分からず、電話が鳴っても取ろうとせずにただ時計の針が回るのを見ているだけなのに、女の子が茶飲み茶碗を片付ける頃になったら、何やら忙しくパチパチと算盤を鳴らしている。皆が「お先に」と声を掛けながら退社しても返事も返さずマイペース。

私のタイプとしましては、気合を入れてやる事柄には早朝から仕掛けます。例えば道具をだしたり、材料を並べるのは決まって朝飯まえに準備完了とします。何日もかけてする事は別として、午前中に目鼻を付けるようにしています。大仕事であって夏の日が長い時でも午後3時には仕舞にかかれるというのが、ひとつのスタイルであります。

まぁ普通の考えとしては、人間誰しも緊張の持続に限界というものがあって、朝から晩まで同レベルで心身を最良の状態に保つのが出来ないのは言うまでもありません。よってエネルギッシュな午前中には仕事も捗るというもので、電池切れの前では手足も鈍るということです。

一方これまた一般的な考えとして、新しい物を創造するとか、心配事の解決に向けての葛藤は、いくら朝の頭の冴えている間に知恵を出して頭をひねったとしても、ハッと思いつくのは夕方とか、或いは寝床に入った途端てな事がよくあります。

いずれにしても、「思い立ったが吉日」、「先手必勝」「旅は早立ち早着き」等々、万事早目を良しとする教えが多いのも頷ける気がします。


 第360話 メーデー

平成27年5月1日


毎年5月1日は労働者の祭典としてメーデーは歴史があり広く知られています。私が就職したのは今から約50年余り前のことでありますが、その年の4月末日に職場の先輩から、メーデーに参加してこいと言われました。多分まだ仕事の右も左も分からない新米に、頭数合わせに参加指示をされたのだと今でも思っています。
行った所はよく覚えてはいませんが、多分扇町公園かと思います。赤い大きな旗が並ぶ壇上で何を言っているのかよく聞き取れない、音量ばかりが大きく響く中で長時間にわたって聞いていました。その後には2時間ぐらいのデモ行進があり、初夏を感じる暑さのなか延々と、歌を歌いながら歩きました。 これが皆さんがご存知のメーデーかと思います。

ところで今回のお題であります「メーデー」は、前振りとは全く関係のないお話しであります。

つい先日、5年ほど使っているアマチュア無線機が、故障しました。昔と違い今の電子機器は故障すれば自分ではどうにもなりません。そこで電話で問い合わせたところ東京のサービスセンターへ送ってくれとなりました。何年か前なら大阪日本橋にもあらゆるメーカーのサービスセンターがありましたが、今ではその大メーカーである八重洲無線ですら、東京の1か所でしか修理をするところが無いという。確かに宅配とか物流網の発展は素晴らしいものがありますが、反対にこのような事案では対面してサービスを受けることが出来ない殺伐とした世になったことの寂しさを感じます。

そこでお話の本題ですが、その無線機を丁寧に荷作りして郵便局から送ることにして、窓口で送付依頼をしました。

伝票の「品名」欄に無線機と記入して差し出すと窓口嬢が、「メーデーメーデー」ですかと言い、大事な品物なので取扱注意の札を貼り付けますと、サービス十分な応対をしてくれました。そして、受付嬢に映画などで救助を求める際には「メーデーメーデーメーデー」と言っていますが無線では何故そう言うのでしょうかと尋ねられました。

私は、無線電話でメーデーは遭難信号発信の前置語であることは知っていましたが、それが、何故メーデーかは正直言って知りませんでした。遭難通信で使われますが、語源は恥ずかしながらわかりませんのでまた郵便局に来る時までに調べておきますとして、帰宅しました。

調べた結果は、
メーデー(Mayday)は、音声無線で遭難信号を発信する時に国際的に使われる緊急用符号語であり、フランス語の「ヴネ・メデ(venez m'aider)」、すなわち「助けに来て」に由来するものであり、一般に人命が危険にさらされているような緊急事態を知らせるのに使われ、警察、航空機の操縦士、消防士、各種交通機関などが使うと、されていました。

なお、この遭難信号の取扱については、先進欧米諸国間での取決めは詳細にわたつて定められています。特に虚偽の通信などすれば、
例えばアメリカ合衆国では最高6年間の懲役と最高25万ドルの罰金を科せられる等の相当厳しい懲罰をされることになっています。

で、知りえた事柄につきまして勉強をする機会を作ってくれました受付嬢に感謝の気持ちを込めて、お伝えをいたしました。


 第359話 浮世渡らば

平成27年4月15日


「浮世渡らば豆腐で渡れ」

ここでの浮世とは、仏教でいう生きることの苦しい無常の世でもなく、現代のいう好色の意でもなくて、極普通の世間を捉えた世の中のことであります。

さて、豆腐とはご存知のとおり四角できっちりとした形をしています。しかし、その物体はと申しますと軟らかいことこの上ありません。

このことからして、外見上のみなりは厳しく律しながら、内には軟らかく柔軟な精神を備えて、世渡りをせよという
教えです。

先般から盛んに新聞紙上を賑わしている、大阪の全国的に超有名な私立学校がある。今や文武に渡ってそれはそれは凄い業績を上げている。広くは武の方が先行して名を馳せていますので、誰でもご存知かと思います。私も高校野球の大ファンでありまして、大阪大会というか、いわゆる地区予選も野球場に足を運んで観戦しています。
その学校の練習風景は見たことはありませんが、とにかくメリハリの利いたグランドでの選手の動きは天下一品であります。まずベンチ入りしてウォームアップするあたりは、むしろスロースタートの感じで動いています。その折にスタンドに目をやれば、これまた一目瞭然です。例えば大阪大会などで戦わずして勝てる相手との対戦では、野球好きのほんの少人数しか集まりません。
ところが大阪ではほかに強い学校もあり、どちらが勝つかというような試合の時には、あれっ今日も応援なしかと思い、夏なら白い入道雲に目をやって暫くしてうつむいたら、スタンドは線を引いたような一糸乱れぬ、それは整然とした大応援団がいるではありませんか。
グランドでは、選手達がそれはそれは大声でシートノックを受けています。内野間の送球練習も、普通の学校の倍くらいの速さで白球が駆け巡ります。最後は捕手が矢の様な球をセカンドベースを目掛けて送球します。
この風景はまさしく、豆腐の四角そのものであります。それを対戦相手の学校には、これは力の差が有りすぎるわいと思わせるのです。

そして、文の分野でも東京、京都を始めとして超一流学校に多くの合格者をだしています。しかしこのことは残念ながら新聞紙上で見れる事以外には、知る由もありません。

四角く教えられて、それをよく実践している生徒達と、軟らかく柔軟な精神の有り方を間違っている大人達とは別々であることは、テレビインタビューで言い訳けしなくても誰でも知るところです。

今回のお題は言うにおよびませんが、人の個人資質について、その生きざまを説いたものですが、組織に置き換えてみればどうでしょう。


多くの組織は、少なくても豆腐の四角い体裁を整えてはいます。しかし、内実は豆腐の柔らか過ぎるところばかりを取り入れて、それを良しとしているのではないでしょうか。 昨年の当初からの国の研究所、また今回取り上げた教育機関のような組織にあっては「鉄の豆腐」であってもらいたい。


 第358話 沈魚落雁閉月羞花

平成27年4月1日


春本番となりまして、人々も温かさに誘われて衣装も軽装となり、またその色合いにも明るさが増して、道行く足元にもどことなく軽やかそうに映るようになって参りました。・・・なにか落語のまくら言葉調となりましたね。

そんな季節に、ふと目に止まったのが今回のお題であります、「沈魚落雁閉月羞花」(出典 荘子)であります。

この上なしの美人を形容する語のことで、美人の前では、魚は深い淵に沈んでかくれ、雁は列を乱して落ちてしまい、月は雲の間にかくれ、花は恥らってしぼんでしまうというのであります。

世には、クレオパトラか楊貴妃かと言って名を残した美人がおられましたが、まあ残念なことに、
私はと申しますと今だにかような美人に出会った記憶がありません。

やはりこうなれば、銀幕か文学の世界に、美人に出会えることを求めなければなりません。そこで多くの映画を鑑賞して、また想像を駆り立ててくれる本を読み、くたばらない程度の旨い酒を飲み、ことさら寒かった冬を無事に過ごせたことに感謝をしながら、春暖に身を任せながら「
沈魚落雁閉月羞花」を唱えて、美人との出会いを夢に、お頼みすることにいたします。


 第357話 黒田博樹投手

平成27年3 月15 日


いよいよ今年のプロ野球の開幕日がま近となりました。

二刀流の日本ハム大谷
翔平選手が、日本球界に止まり、その雄姿を見せてくれています。おそらく日本ハムファイターズのファンとかどうかという枠を超えて、大谷選手の投げる160キロと、打の綺麗なフォームから放たれる大ホームランにプロ野球ファンのみなさんは見とれて、応援されていることと思います。

その話題に追い打ちをかけるかのように、昨年末に
広島カープに背番号15黒田博樹投手が帰ってきました。彼こそ男の中の男として、カープファンのみならず、プロ野球ファンであれば誰でも喜んでいることでしょう。

近年は、日本のプロ野球界にあっては名を馳せた選手は、ことごとく海を渡って行ってしまいます。いわゆる空洞化現象の中にあって、まだ力を残して復帰した黒田選手と、将来に大きな夢を抱かせる大谷選手の両名にはファンにとっては有難い存在であります。

私はホークスファンでありまので、松坂大輔選手もこの話題に加えたく思いますが、少しばかりステータスに差があります。まぁ松坂選手には、是非ともホークスのエースとなって活躍をしてくれることを願っています。

さて、新聞などの報道によれば、昨シーズンの活躍によって
黒田選手はメジャーで最大限の評価を受けて、その年俸は21億円超えのオファーを複数の球団から受けたとされています。一方広島カープでは4億円とのことであるが、この年俸差を考えれば、平凡な人生を送っている我々には、広島カープ復帰を選択した考えには俄には理解ができませんでした。

しかし、今回の広島復帰を選択した要因には、黒田選手は8年前にメジャー移籍を決心した時に「今の僕があるのは球団のおかげ」とし、渡米後も「日本に帰るならカープ」と愛着を口にしてきたと報じられていることです。

表面上で知りえる事情と、当事者間の本当の成り行きは知る由のないことではありますが、プロ野球とは選手も球団もファンを始めとして、広く老若男女にわたり「夢」を与えるのが仕事です。特に日曜日となれば早朝からグランドに集まり厳しい練習に耐えている少年球児の夢を称えてやらなければなりません。

話は少しそれますが、10年程前に、私が勤めていた会社で机を並べていた女性の事務員さんに住所からして広島カープの黒田選手と中学校が一緒でしたかと聞いたら、「黒田君なら同じ組にいました」と聞きました。そして同じ町にある黒田スポーツ店のことも。しかしその店主が元南海ホークスの選手であったことはその事務員さんは知りませんでした。

また、その中学校は、かつて G で活躍された高田選手の母校でもありましたが、通の目には高田選手いらいの逸材との噂があった黒田選手も多くの人の目にとまるようになるのは、広島カープで名を馳せるようになってからでありました。

と、まぁいろいろな想いが重なりあって、今年は、黒田博樹投手の活躍を応援します。


 第356話 ム矢三くタ

平成27年3 月1 日


時は花の三月となりまして、幾分暖かくなるにつれて気温の上昇につられて空気が軽くなるかのように歩調を合わせて、ほんの少しだけ気分が上向いて参りました。

そしてこれからの時期には、日本の風習としまして多くの出会いと別れの時でもあります。

そこで今回のお題であります「ム矢三くタ」の出番となります。「あいさつ」と字で書きますと「挨拶」なのですが「拶挨」なのかなと迷ったことはありませんか。これは例えば「食事」を「事食」と迷う人は無いように「食」と「事」は、日常において目に触れたり、また使うことの機会の多い字は頭に明確に認識されているからです。一方、「難解」の様に難解な字も問題なく書き表せるのに、何故か「挨拶」はなかなかうまく書けないものです。

偏に、手偏を二つ書いて、旁には上から、「ム」→「矢」→「三っの く」→「タ」を書けば「挨拶」の出来上がりになります。 他に「壽」や「戀」など難しい字を分解しながら覚える例がありますが、皆さんもそれぞれ自分のオリジナル方法で難しい字を書く技をお持ちのことだと思います。

そして個々の挨拶には、とにかく自分より先に「お早うございます」「こんにちは」と、また初対面の時などでは「何々と申します、今後ともよろしくお願い申し上げます」のごとく積極的に口を開く事です。
一方、大勢を前に行う挨拶は、十の事を全部言い尽くすよりも、一つや二つは言い忘れてアホやなと思われても、なお短く済ませるのが大事な事とです。

「挨拶」と書く機会が多いこの時期に少しでも参考にしていただければ有難いかなと思います。


 第355話 いみじくも

平成27年2 月15 日


男性はあまり言いませんが、特に若い女性が絶景の眺めや、滅多に目にすることの無いような事物にでくわした時の感嘆語として 「うわっ いやだー」 と言葉を発するのを聞いたことがあるかと思います。

これは、その驚いた事物が イヤ であったのではなく、あまりの美しさに感嘆の声を上げたのだと思いますが、昨今の特に若い女性の間では、もともと否定語であった 「いやだー」 が肯定語として使われていることが多くなりました。

今回のお題である 「いみじくも」 も元は「忌み」であり、いみじは 「とんでもない」 とか 全然望ましくないことを意味したものでありました。しかし、現在ではその多くに 「はからずも 巧く行った」 という肯定的な意味に使われるようになりました。

そして今大変耳障りな言葉使いとして 「全然 大丈夫です」 とか 「全然 好きです」 という具合に全然に続いて肯定的な言い回しがよく使われています。

全然にはそれに続く語の、打消しをする否定的意味が伴っていました。 「全然 分からない」 「全然 あかなんだ」 という具合に使ってきました。しかし、もう10年くらい前から、これまた若者の間から 「全然 美味かった」 とか 「全然 面白かった」 という様に肯定的に使われる度合いが段々と増えて世に氾濫され全く異を唱える人もありません。

気になって広辞苑で調べてみたら、全然には 俗な用法で、肯定的にも使うとされています。ならば当方こそアブノーマルなのかと考える次第です。

こうして並べてみれば 「いやだー」 「いみじくも」 「全然」 の他に山になる程にこの種の事例があることでしょう。言葉の文化、言葉の進歩などと言われ方は有っても、「全然 嬉しい」 という具合の使われ方は、耳に障る。


 第354話 脚光を浴びる

平成27年2 月1 日


プロ野球選手の 誰それが 「脚光をあびている」 という言葉づかいがあつたとすれば、これには少し無理があります。

そもそも「脚光」とは、劇場用語であって舞台の床に設置した、フット(脚)ライト(光)を浴びることであり、その照明で役者や歌手を脚のほうから照らし、下から浮き上がらせて、大きく見せる効果を得るための物であります。

まあ、野球選手にも野球より、歌やその他の芸能達者で、オフに脚光を浴びることや、シーズン中にゲームで活躍して、お立ち台でその機会が有るかもしれませんね。

これには、明治の文明開化の頃に、外国語と日本語を、意味の通じるようにうまく、部分に漢字を当てて訳した言葉があります。例えば、バスケットボールは、バスケット(籠)にボール(球)を入れる競技であるから、籠球という具合です。そう言えば「塁球」でなく「野球」と名付けた、中馬 庚
さんは広い野原を抱かせる空間の中で楽しむというイメージがある 野球は、私としては良い名付けであったと思います。

しかし、現在ではよほど言葉づかいの厳格な分野でない限りは、フットライトと類似するスポットライトの使い分けもなく、この「脚光を浴びる」も、広く
社会の注目の的になるという意味での社会認知がされているようで、それも喜ばしい方向であるかに思います。

昨年は、「青い光」のノーベル賞が脚光を浴びました。 また、今年もいろいろと明るい 「脚光を浴びる」 嬉しい出来事が沢山あればいいな
と思います。


 第353話 大は小を兼ねる

平成27年1 月15 日


これは早い話、小さい重箱であれば小さい風呂敷でも包むことは出来ますが、大きな重箱を小さい風呂敷では包みこむことは出来ません。しかし、大きな風呂敷なら大きな重箱は包めるし、また小さい重箱も包むことはできるということです。

この当たり前の話を改めて言い表した字句が「大は小を兼ねる」ということであります。もうすこし意味を広げると、大きい物は小さい物の代わりとしても使えるし、小さい物より大きい物の方が使い道が広く役に立つという例えとされています。

しかし先述の風呂敷のように同一の物であれば何のこともないのですが、、世にはいろいろなことを考える人はあるもんで、 「大は小を兼ねると言えど 杓子は耳掻きにならず」 と言い返しました。

広島名物の 杓子 と、耳を掃除する 耳掻き は本来的には全くの別物であることは承知ながら比較対象となる二つの物体には、いわゆるジョークとしての成り立ちが必要になりますけれど、それにしてもこのユーモアを一度受け入れてみれば、本当に面白く愉快な言葉文化に発展しました。

一方、現在の世に存在するあらゆる物には、その品物のメーカーは何処、年式は何時、サイズは、等々と委細詳細に分類されて、今どき製造された大きな風呂敷では、小さい物ですら規格外とかて包むことが許されない現状もあります。

今後はますます進歩発展するなかで、昔とは逆に、杓子が耳掻きになったり、耳掻きが杓子になるという、融通と余裕が万物に備えられて、人に優しい世になれば嬉しいと思います。


 第352話 風は吹けども

平成27年1 月1 日


---------新年 あけまして おめでとうございます-----------

-----本年も、「小話コーナー」をよろしくお願いいたします------


「風は吹けども山は動ぜず」

年頭にあたりまして、今年も元気に、そして素敵にすごすことができますようにと念じまして、今回のお題を選び、その思いを述べさせていただきます。

自分的には仕事の第一線を退きまして昨春で10年が過ぎました。従いまして現在は金銭的な貧乏を除けばさしたる重荷が肩に乗りかかるようなことは無きものと思いますが、それが生きていればそうは楽なものでもありません。

お題のごとくの「風」は、誰にでも望まなくても勝手に無理難題が舞い込んで来る事なので、それをどんと構えて右や左に上手にかわさなければなりません。もっともかなりの強い風を受けても、身に感じない人があれば、ほんのそよ風でもバタバタする人もあります。どちらかと申しますと私は、そよ風でもバタバタするタイプであります。

若い頃から「流言飛語」とかに、かなり弱いタイプです。個人の間での出来事ではありませんが、思い起こせば昭和48年の第一次オイルショックの時に、いろいろな容器をかき集めてガソリンを貯め込みました。この例のごとくでありまして、大小を問わずに深く思案もしないで行動に移し出します。
しかし、今は確かに何事にも一呼吸の間合は取るようになりましたが、これは年を取ることによって感覚が鈍くなっただけであり、決して思案深くなったとは思いません。

よく年を重ねると気が長くなり、思慮深くなると言われますが、私の思いは真逆でありまして、気短で瞬間湯沸になるのが年寄りの特徴かと思っています。ただ頭に情報がもたらされても状況判断が鈍くなったり、腕力が物を言う揉め事には尻尾を巻いて退散するだけになります。
気が長くなったり思慮深くなると世間では思われている程に人間が成熟したものではありません。

とは言っても6回目の年男を迎えた今年は、少しは年相応の暮らしをしなければならないと思っています。 風が吹いても山は動かないように、周囲の事情には配意していらぬ評判や噂には心をとめず、殻に嵌り込むことなく、その上に自分の考えを堅持して他から信頼を得ながら、少々の雑音には動じることなく一念を通せる未年として参ります。

 


 
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